◇支配宗教
下で言う宗教的とは実存に対するなにがしかの回答を求める、人間精神の欲求から生まれるものだ。人は個々人が様々な形で実存に対する回答を、快楽への逃避であったり、自己の掘り下げであったり、組織への埋没(自我の投棄と一体視)であったり、自然と向き合ったりと色々行う。行わずにはいられない。
実存の希求に対して論理的・組織的に応えるのが宗教である。
自然宗教、多神教の多くは害の少ない形で組織的に実存に答える。多神教は人を支配する傾向は少ない。替えが幾らでもあるのだから、自分にあるのを選んで信仰すればいいだけだ。
それとは逆に、実存の欲求を上手く満たしつつ、その力を一個の独裁権力に集めて、この世を支配する力とするのが支配宗教だ。創価学会やオウム真理教など教祖が直接独裁権力を握るカルトは元より、EgyptからJuda,Christ,Isramなど一神教の多くが典型的な支配宗教である。
近代社会では信仰の自由を認めることで擬似的に多神教世界を維持している。
<支配宗教の性質>
・生活のあらゆる所を、道理に基づく自律的選択ではなく、他律的に支配する
・宗教権力がそのまま地上権力となる、なろうとする
・一度入ると抜けることができない
・他の宗教を攻撃し、消滅させようとする
・他宗教から信者を奪う際に、自由な選択でなく、地上権力(暴力や社会的統制)を用いる
これらの程度が強いほど支配宗教となる。
◇Communityの快 – 付き合いの一部としてのGame
最近Handle Name(仮想のUser名)を基にしたAccountをつくって”おつきあい”をし、そのネタとしてCasualなVideo gameを遊ぶというSNS(Social Networking Service) gameが流行ってきている。
SNS gameの場合は仮想に軸を置いた薄っぺらな関係を補強する面も強いのではないかと思うが、作品としてのVideo gameを遊ぶにしても、先に友達関係のような付き合いがあると、まず存在そのものの是認があるので、全身をつつまれるような快があり、Gameはそれを強め高めるものとして遊ばれる。一人でGameを遊ぶのは、そういった付き合いから目を背け、むしろ振り切るかのように局部的な快楽に身を任せすべてを蔽おうとする行為だ。
前者は日常の社会的付き合いが玩具としての異常を弄ぶが、後者は異常が日常(の社会的付き合い)を奪い断ち切る。
作品としてのGameとそれと向き合う己という個対個の関係は、本、映画などのような個人Mediが世を風靡した中で発生したため、まるでそれが当たり前かのように受け取られているが、そもそも遊びの一部としてのGameのほとんどは多人数との関わりとの中で生まれ、使われ、発展してきた。Game、即ち遊びでありながら個対作品という関係を築くこと自体がここ数十年になって許された人類史の中でも特殊な現象だろう。
以下、雑考宿題
・個が相互に作用し合う作品の付き合いは、宗教的営みの中で育まれてきたもの
・そもそも作品を表すということ自体が宗教的な行為ではないか?
・Game作品は誰かがArtとして表現したものに、他者がPlayによってArtを現そうと関わるものではないか?
・つまり、作品に関わる、関わろうとする事自体が宗教的行為ではないか
・Game作品で体験され得るものは受動と能動がまぜこぜになっており、しかもどれをどの程度能動的/受動的に使うかはPlayerに任されているため、それが”大衆的関わりの中での消費”や、Gamerとしての論評、適当に流して見た目を重視した評価などに分化する
