SAND STORM

play to live

2010年5月25日

Colossal Cave Adventure – play log vol.1

Filed under: 未分類 — Tags: , , — sajin @ 18:45

◇Mapping

Colossal Cave Adventureをやっていると、どうしても手書きでMappingしたくなる衝動に駆られるのだが、やろうとする度に、IF特有の複雑怪奇に絡まり合うLevel構造から躊躇している。

Interactive FictionのMappingを考えた場合、

・曲線・破線、線が交錯した時のまたぎを柔軟に行えること

・文字を大きさ角度ともに自在に挿入できること

・後から幾らでも修正できること

・後から幾らでもSizeを大きくできること

といったことがどうしても必要になる。鉛筆による手書きだと、上二つは容易にこなせるが、後からの修正と拡大がかなり難しい。逆に、Paint toolなどだと、上二つはとくにまたぎで問題を起こしたり、文字の挿入も面倒そうだ。

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Daily Log (May 2010)

Filed under: 未分類 — Tags: , — sajin @ 06:24

◇失われる戦後日本

民主党とかいう気狂い左派と確信犯的反日集団、それに幼稚な改革気取りを付け加えた寄せ集めが思ったよりも早く戦後日本を破壊している。これは、左派的妄想による社会規制と支持母体への利益誘導しか頭になく、天災や侵略が起これば何もしないのは当然、手引きすらする連中なのだから当たり前のことだ。

戦後民主主義で物事は解決しない。

戦後日本を続ける限り、財政、福祉、経済、安保、自治すべてがその個々の要因においてすら行き詰まる。戦後日本という豚小屋の管理人をすげ替えても、自壊の速度が変わるだけで腐った柱や土台が建て直されることはない。

覚悟しておくといい、「失われた二〇年」ではない、「失われる戦後日本」である。国家体制が転換するまで失墜は止まらない。

子曰わく、

人の性は相い近し、習えば相い遠し

唯だ、上智と下愚は移らず

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2010年5月23日

カタカナ英語をやめよう

Filed under: 未分類 — Tags: , , , — sajin @ 04:00

実体験に基づいてカタカナ英語という捏造言語での表記をやめて原語表記にすることによって何が得られるか、無意識にカタカナ英語を乱用することで個人が、社会が、何を失っているのかということを書いていきたい。

子路曰わく、衛の君、子を待ちて政を為さば、子将に奚をか先にせん。

子曰わく、必らずや名を正さんか。

子路曰く、是れ有るかな、子の迂なるや。

子曰わく、野なるかな、由や。君子は其の知らざる所に於いては、蓋闕如たり。名正しからざれば即ち言順わず、言順わざれば則ち事成らず、事成らざれば則ち礼楽興こらず、礼楽興こらざれば則ち刑罰中らず、刑罰中らざれば則ち民手足を措く所なし。

故に君子はこれに名づくれば必らず言うべきなり。これを言えば必らず行なうべきなり。君子、其の言に於いて、苟くもする所なきのみ。

(子路がいった、「衛の殿さまが先生をお迎えして政治をなさることになれば、先生は何から先になさいますか。」

先生はいわれた、「せめては名を正すことだね。」

子路はいった、「これですからね、先生のまわり遠さは。[この急場にそんなものを]どうしてまた正すのです。」

先生はいわれた、「がさつだね、由は。君子は自分のわからないことでは黙っているものだ。名が正しくなければ言葉も順当でなく、ことばが順当でなければ仕事もできあがらず、仕事ができあがらなければ、儀礼や音楽も盛んにならず、儀礼や音楽が盛んでなければ刑罰もぴったりゆかず、刑罰がぴったりゆかなければ人びとは不安で手足のおきどころもなくなる。だから君子は名をつけたらきっと言葉で言えるし、言葉で言ったらきっと実行できるようにする。君子は自分のことばについては決していいかげんにしないものだよ。」)

論語 巻第七 子路第十三 金谷治 訳注

言葉が現実の事象と対応していない→語っていることが現実と乖離している→名称の次元から現実と乖離したことをやっているので仕事・事業はロクな成果を収めない→また名も言葉もちゃんとしていないので、まともな文化・民俗が成り立たない→いくら刑罰を煩瑣に立て厳しくしても、それを受け入れて正しくしていく土台がないので犯罪が減少しない→万民が安心して暮らせる社会は訪れない


◇安易にカタカナ英語に頼ることによって失っている物

・よく日本人は”ガイジン”が描く日本文化を見て笑っているがカタカナ英語を使って日本人が理解していると思い込んでいる”事象”はまさにその嘲笑うべきトンデモ日本文化と同じもの。

・カタカナ英語は知的に劣化した万葉仮名への退行に等しい

・カタカナ英語は原語と対応する実態が目の前にない為に、曖昧で受け手がどうとでも想像できることを悪用して商売,政治あらゆる面で詐欺的に使用されている。

・カタカナ英語が本来の事実に通じる橋を焼き払っている

橋を焼き払っているだけならいいが、カタカナ英語は偽物の橋を架けて、偽の意味、偽の世界に誘導している。

・カタカナ英語を止め原語を直接表記することで英語圏への橋が架かり、道が開ける。

橋がかかり道が開けば、後は実用に基づいてそれぞれが身につければよい。

◇カタカナ表記から原語直接表記にすることによって個人が得る利点

・Spellingの修正から始まって正確な英語への接近

原語表記を始める→カタカナ英語に依存していた為にSpellingが間違っているのに気づく

・本来の日本語力も取り戻せる

カタカナ英語を原語表記に置き換えてみると、日本語の文章としておかしい、成り立っていないことが多いことに気づく。これらは本来日本語で表現すべきことだったということ。

カタカナ英語→日本語は単純な単語置き換えでは通用しない。文脈に応じて多数の語を組み合わせる必要がある。本来それをしていなかったことこそが問題。

カタカナ英語を用いて安易に表現し理解したつもりになっているが、それはどうとでも取れる曖昧さの上に乗っかっているに過ぎない。つまり日本語能力の劣化である。

・日本語を中心に書き綴りながら継続して自然に英語力も強化していける

・原語直接表記は「常時軽い運動を絶やさない」ことと「junk-food(ジャンクフード)など身体に悪いものを食べない」ことを同時に行うに等しい。

◇カタカナ表記から原語表記にすることによって社会が得る利点

・カタカナ英語の利用はどちらの文化でも通用しない本来の意味から懸け離れた流行語に依存する言語的退廃へと陥る罠

・本来の言語は文化資源と直結している。エセ言語を用いるとそれらと遮断される。

・カタカナ英語は流行語としてしか通用しない

今喋っているカタカナ英語の類は大半が十年も経つとまるで通用しないゴミの山となる。必死にゴミを文章に切り貼りしてわかったつもり、わからせたつもりになっているが、数年でそれはまともに意味を為さないゴミの山となる。

世代を越えて通じていく言語に、その時の流行り廃りでペンキをぶち掛けていく様な行為を繰り返すと、社会全体の意思疎通すら難しくなる。自分は最新のカタカナ語に通じた流行に精通した人間だったのに、数年すると何を言っているかまるでわからない、といった事が繰り返されている。十年も経つと若い世代の言うことがさっぱりわからない。ここで言う”わからない”は、考えがわからないのではなく、言葉がわからないという次元のものになる。

・カタカナ英語は事実を正確に反映しない単語を際限なく捏造し、人々を日本語・英語両方から遠ざけて、利益獲得の機会を喪失させ、社会的負荷を増やしている。

・幕末~明治時代には西洋由来の事を漢文学に精通した学者が日本語化しそれらは東洋で通用するまでにまでなったが、最早世界規模で通用することのない和製漢語(漢字、漢字の組み合わせ語)を作るぐらいなら、最初から英語(原語)を用いるべきである。

・カタカナ英語と原語直接表記が混在すると逆に読みづらい。二言語構造が読み込まれるため。

日本語+英語 vs 日本語+カタカナ英語+英語だと前者の方が遙かにマシ。


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