SAND STORM

朝ぼらけ

2014年2月17日

日誌 – 平成二十六年二月

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◇霧

幻影というのは空気のようなものだ。実体のない空気のようなものであるから、それぞれ違う個体に霧のようにまとわりつくことができる。そして、それ故に幻影は深く入り込み、時に辺りも見えぬほど立ち込め、それほど立ち込めた霧が数時間で嘘のように綺麗に消えてしまう。

霧に何を見るのも自由、霧を撒くのも自由、霧に巻かれるのも自由、霧を払うのも自由、霧の中で足さえ踏み外さなければの話だが・・・

◇巫女と預言者、日本人の求める一体感

ユダヤ民族の歴史を見るとき、日本民族にとっての「巫女」に相当するのは、「預言者」である。「巫女」と「預言者」との比較を考察すると以下のようなことが云える。
モーセ(あるいはアブラハム)以来、ユダヤ民族における「預言者」の系譜は~略~三十余人を数える。このこと自体、「預言者」なるものの存在が、ユダヤ民族の精神構造に適合していると云える。実際、世界の歴史を見れば、人類の歴史は、ほぼ「預言者」の「預言」通りに推移して来た。「預言者」とは、あくまでも「神」の言葉を「預かる」者であり、その「神託」は、ユダヤ人の歴史を見ればすぐ分かることであるが、常にと云っていいくらい、民の欲求・願望・希望・要望に反するものである。それ故、預言者は、殆どの場合、民から「狂人」扱いされ迫害されている。少なくとも日本人がなりたがる、また、欲するタレントではない。にもかかわらず、ユダヤ民族においては、日本民族のような「巫女」は存在しない。ということは、ユダヤ民族の精神構造においては、あくまでも「預言者」が適合するということである。
「巫女」は、憑依して、つまり、自らの意識を喪失した状態ということは、無意識のみ機能する状態で、神の「お告げ」を聴く。無意識の状態で感じられるのは、民の「心(無意識)」である。「憑依状態」で民の無意識の心を感受する才能の持ち主が「巫女」になって、民の無意識の心を「神意」として感受する。それ故、巫女の神託は殆どの場合、異論なく民の受容するところとなる。このようなメカニズムにおいて「巫女」は存在する。とすれば「巫女」の存在基盤は民の心と「一体」になりうるところに存在する。日本人の民族的精神構造である「一体感の心理」は常に自分の心と他者のそれとが「一体」であることを欲する。それ故、「巫女なるものの存在を要請するのである。それ故、「巫女」の存在基盤は、日本人の心理にあるといえる。

蟹江清志・早川清一  「天皇制の心理的基盤としての日本人の心理について

ユダヤ人というのは不思議な民族だ。古代、彼らは虜囚となって以降、少数派として他民族、他社会の中で生きることを余儀なくされた。それ故に、生物種としての”人”を外部から観察する術に長けている。そして、それは良くも悪くも生き延びるために利用される。

思想その他知的な面で異様に優れた人を追っていると、あまりにも多くのユダヤ人に突き当たる。そしてその”優れ方”は明らかに単一の社会に育った人間と異なっている。

閉鎖的な一神教で統治された民族の内部で伝承される技なのか、恐らく知性の高い人間を世代を越えて育てる術を確立し、伝授しているのだろう。それも”人間”観察の為せる業か。


◇祝祭

余剰ある者には喜びの雨も
俺にとっては打ちつける雹

行きたいが、行きたくない。もう何度切り捨てるべきだと言い聞かせたことか?

最終的には、最初からそうであったように、この下らぬ頭で考えないようにするしかないのだろう。まったく切り捨てるべきだ。そしてそれそのものをどこかに引っかけて忘れるべきだ。

◇人非人

細胞次元の生と意思と切り離された反射神経だけでも人は動く。

一番苦痛なのは、人間的領域と非人間的領域を行き来させられることだ。人非人のままならどれだけ楽なことか。それはそれで回るのだ、回らない人間的な人間よりも遙に。

肉の山、骨の山、おほすぎて、数へることすらできなひ

◇声調

最初正字正かな表記を見た時は、昔の人間はよくこんな書き方をしていたものだと思った が、上代特殊仮名遣いの仕組み(甲音・乙音という音の上げ下げで表記を変えるに過ぎない)を知って読んでみると、文章から音と感情が再生され驚いた。日本語というのは本来これほど優れた、簡潔で豊かな情報を持つものだったのだ。

戦前と戦後で日本人の感性が大きく変わってしまったことの一因に、発音の微妙な違いを表す表記を無理矢理統合して消し去ってしまったことがある。言うこと書くことのすべてに微妙な感情を込めることが消し去られれば、もう別の機械的言語を使っているようなものだ。

日本人が外国語を理解するのが不得手なのは、この発音における声調を意識していないことが大きい。どの外国語だろうが、戦後日本語のあまりに単純化された声調では理解が著しく困難だ。戦前の人間が容易に世界に飛び出していって活躍していたのは偶然ではない。

◇芝居

 芝居はだまされたい人がいるからこそ、成立します。いくら人生に似ていても、人生とちがうのはその点で、だまされたいために、お客は入場料を払うのです。

さっきの妊娠の話や、ニセモノの話は、人生の中へ芝居を持ち込み、別にだまされたくはない人をだましたという点で、芝居にとっては重大なルール違反です。

しかし、ルール違反であろうと何だろうと、芝居は必ずおわり、幕は必ずしまり、お客はかえってしまう、という点で、人生のおわりと芝居のおわりはそんなにちがわないのかもしれません。

三島由紀夫 『行動学入門』 134頁

せめて、芝居ぐらいさせろ。

◇巫女

すでに述べたように、カンナギ、ミコなどと呼ばれた巫者的な女性宗教者たちは、体制的な仏教や神道の制度化のなかで、従属的な地位へと落とされていった。その姿はたとえば験者の憑祈祷(よりぎとう)においてヨリマシをつとめる女房たちや、あるいは『梁塵秘抄』の今様、「わが子は十余に成りぬらん、巫(かうなぎ)してこそ歩くなれ、田子の浦に汐ふむと、いかに海人集ふらん、正(まさ)しとて、問ひみ問はずみ嬲るらん、いとをしや」などによって例示されてきた。
「巫女の淪落」という歴史の流れは、総論としては正しい。とはいえ、なかには、かなりの主体的自律性を保ちつつ、仏僧に拮抗しうる力を認められた巫者たちも依然として存在した。

池上良正 『死者の救済史 – 供養と憑依の宗教学』 p.209

昔からidol(アイドル)に興味がない。せいぜい顔かたちがわざとらしく整えられた人間が何かわざとらしいことをやっている程度の認識しかない。芸そのものに感嘆することはあるが、idolとして振る舞う人間を偶像として感受し崇めることはない。

原始宗教が神道の下に体系的に統制され、挙げ句仏教が国家によりねじ込まれ国民が洗脳されたことで、古代の巫女は零落し、主役の座を奪われ、性愛は売春と家の継続に引き離され、神主のいない神社と紛い物の破戒僧が満ちあふれた。

千年以上の時を経て、他者に造られ電波の川に流されるのみだった偶像が自己の決定権の元に祭祀を始めた時、巫女は復活したのだろうか?それとも時代の狭間のあぶくに過ぎないのか?

◇Cool Rack

棚を四つ買った。本はかなり処理を進めて半分ぐらい(千冊程度か?)にしていたのだが、色々書いたり調べたりしていたら増えた。山積みだと何があるかどうかもわからないので、処理をするにも使うにも一目でわかるようにしないと、何も進まない。


◇Overall

overall(いわゆるツナギ)の弱点は腰の部分で荷重を支えないので、肩に多くの重量がかかってきてしまう点だ。だから上半身をはだけて、半分脱いだ状態のままうろうろするのは不可能だし、肩が凝りやすい。

屋外活動も含めて動く必要があるなら、one sizeないし、数cm大きなpantsを重ねるのが筋で、その際下に履くのはsweatpantsのような簡単に上げ下げできるものでないと、下の処理に困ることになる。

上半身の重ね着は、単なる保温だけでなく、通気性も重要で、人間の肌は呼吸含め代謝を行っているから通気性の悪いものを重ね着すると、調子が悪くなる。

◇寒い

予想はしていたが、また真冬気温に戻った。

今冬は冬季戦に本格的に取り組み、外出用の上着、軍用overall、軍用jacket、face mask、手袋その他を買いそろえ、色々試してみた。

・下半身はsweatpantsを着て、その上に余裕のあるpantsを重ね着するのが安定する。股引の類は血行を阻害するのであまり好かない。

・overallはある程度動きやすい格好の上に被せるように着ることができるので調整着として屋内で便利。軍用はそもそも作業用なので皿洗いなどの作業も特段無理なくこなせる。

・face maskは深夜氷点下の気温の中に出ていっても寒さを感じない。

・手袋は見せることを考えないなら、結局厚手の軍手が一番だろう。

・外上着はDIY shopで売っているようなふっくらした化学繊維のものが軽さと暖かさ両方で飛び抜けて優れており、しかも動きやすいので格好をつけるのでなければ、冬用作業上着が一番いいという結論に至った。

この格好で外をうろついた場合、変質者・terrorist・犯罪者などとして高確率で通報されるので、その点だけが問題。

◇温い

あたたかい。

あたたかすぎる。おかしくなりそうだ。

昨日まで氷点下でも、虫というのは温かくなった瞬間に踊り出すものだというのを散歩をしていて知った。

自分は外に出て散歩して、何かを得なかったことがない。どんなに暗く落ち込んでいる時も、破滅的な気分の時も、人生なぞもう終わりだと思っている時でも、juiceだけ買ってすぐ帰ろうと軽く出ただけの時も、散歩して何かを得なかったことがない。行き慣れた近所を、寂れた山間を歩き、都市の狭間を自転車でうろつき、人の通らぬ山中を訪れ、猥雑な街をすり抜ける。特段何の価値があるとも思われていない場所を、何の価値もない自分がうろつくと、必ずそこに価値が生まれる。

驚き、発見、気分転換、体調転換、思考の回転、新たな知見、思わぬ体験、ほとんどすべていいことばかりだ。まったく人間というのはちっぽけなものだ。この陳腐な台詞が、散々散歩した後だと、よくわかる。

◇大陸化

これからの日本は嫌でも大陸化していくと思っている。

大陸化というのは、土地に縛られた繋がりが極限まで薄まって、流動化が当たり前のこととなり、隣に異質な集団がいるのは当たり前、血縁や宗教などといった特殊な横の繋がり以外残らなくなる、といったことだが。日本人が当たり前と思ってきた障壁、都会と地方の障壁、海外と国内の障壁というものがより一層削れ消えていく。

日本の農村共同体的村社会は地方ですら既に残骸であって事実上消滅寸前であり、復活は有り得ない。これ自体は明治維新以来の中央集権による小共同体の破壊と都市化が百五十年に渡って完遂された結果だが、敗戦後の特殊空間の中で、本来その中央集権が保証する均一性すら失われてしまった。すべてが同質性の低い小さな異集団へと切り替わっていくし、もう切り替わってしまっている。

趣味での繋がりは、その軽さ故に容易に薄い繋がりを生んだが、その軽さ故に生全体を繋ぐものとはならない。生全体を保証する”家”や家が安定して存在する地域の有り様が崩壊し、その立て直しも実質的に不可能な中で安寧の場は消え去っていくだろう。

自律的な、自立した結合を失った社会を持続させているのは、社会主義的な制度の下に政府から回ってくる金が主だが、それがもう長くは続かないことは今では誰の目にも明らかだ(恐らく欧米は”成功した社会主義”日本の破綻を他山の石として、自己改革の種とするだろう)。

周りは同質性の高い者ばかり、生き方は政府が決めてくれる中で抑制的に生きればいい、というのはUSSRとその支配下にあった国((ソヴィエト連邦と東欧諸国)と実に似通っている。破綻後の有り様は、一面でそれらの国を思わせる。

何にせよ長期の安定の為に生きるのは馬鹿げている。自決の手段を確保しながら、それを背に置いた上で、充実した限られた生を生きるべきだ。信念や信仰が復活するだろう。

◇人生五十年

昔は人生五十年と言ったものだが、実際人間の人生としてはそれが丁度だ。

一体誰が平均八十歳もの、下手すれば九十、百と生きかねない人生を世話できるのだ?それは他人を犠牲にせねば絶対に不可能なことだ。昔は少ない老人を大家族で面倒を見れば済んだ。今は、子孫も残すことができず奴隷のごとくこき使われる若者と、生まれてくるべき赤子を虐殺しながら、その犠牲の上に、老人たちの終わり無き生が延長されている。最近また医療が進歩したそうだが、七十過ぎた老人に、次々臓器を移植し、幹細胞をぶち込んで永遠の老いを貪らせるのだろうか?

少々無軌道に生きようが、何かに挑戦して失敗しようが、五十年でキッチリ死ねるなら大概問題になりもすまい。本当に無軌道な者なら若さの余韻がある内に死ねる三十代こそが寿命に相応しい。人生に果てが見えず、終わり無き老後が約束されるから、人は己を試しもせず、ただ燻ったまま、不味いところへ不味いところへと落ち込んで、より悪い老いを迎えることになる。そもそも尊厳死自体が人生がある程度分かる三十、四十になった時点で万人に許されて当然なのだ。

最近また自死とかいう馬鹿な言葉を捏造しているが、日本には”自決”という言葉が昔からちゃんとある。自分自身で、もうこれ以上生きるに値しないと諦観できるなら自分で決意して死ぬ、そんなことは当たり前のことに過ぎない。私が知っている田舎の村では、昔から老人が身を沈める池というのがある。老いさらばえた身体でこれ以上生きても苦痛しかない時、人ではなくなる痴呆にしか救いがないのなら、人は尊厳を以て死んで当然なのだ。

その手段が文明的に整備されず、自己の多大な苦痛と、他人の迷惑になるような手段しか用意されていない現状と後ろ指を指される社会の認知こそが狂っている。自決する者こそが社会的に立派で、自らを律して生き、強い意志で死すべき時に死ぬことができる誇り高き生命なのにだ。腐った道徳の屏の中で老いを貪る者達に、その屏を作り出して他者の生と富を奪う者たちに何の正義がある?

◇幻影

没落するものほど幻影に囲まれている

そもそも幻影で目を覆って生きてきたから没落し

落ち始めるとなおさらそれにすがる

落ちてしまえば早いのだが・・・!

大概は幻影を維持するために、富も健康も時間も何もかも差し出して

周囲の者まで貶める


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