SAND STORM

朝ぼらけ

2014年8月5日

[旅行記] つくば科学万博跡地訪問記 平成二十六年七月

Filed under: 未分類 — Tags: — sajin @ 01:15

今からもう三十年近くも前のことだが、つくばで科学万博(Wikipedia)があった。
個人的な記憶としては零である。大阪の万博は行きこそせずとも知っているが、つくばのそれは存在そのものを知らなかった。

乗ったのは2005.08開業のつくばExpressで、在来線としては違いが明らかにわかるほど速い。沿線の風景はいかにも関東の外れの方をbubble経済以降のやり方で新規開発した感じだ。

下りたのはつくば万博記念公園駅だが、基本的にこの駅は罠であり、本来田畑しかないような場所を単につくば中心地への通過地点というだけで駅をつくり、駅周辺だけを開発して、岡本太郎の記念碑を据えたという場所であった。一応駅に万博跡公園への案内らしきものはあるが、ごく小さな手作りのものであり、一歩外に出れば、基本的に案内は無いと思わねばならない。駅周辺の領域を抜ける際、目印になるのは水色の水道橋だけだ。これを見逃すと必ず迷うことになる。

最初、駅周辺に公園跡があるのだろうと反対側をうろついて、何もないので一旦駅に戻って、公園のある反対側に向かったものの、水道橋からずれた場所から丘陵へ突入してしまい、変わった神話伝承を持つ大昔の開拓集団の神社へと出た。

結局、最初の案内に辿り着くまでに1.5kmほど彷徨する羽目になった。高圧線の鉄塔が白く塗られているのが公園入り口の目印だ。二つめの案内看板で右に指示が出ているが、寄り道をしたいのでなければそっちには行ってはならない。真っ直ぐが最短だ。芝刈り機の勇姿が見たいなら話は別だが。

さて、万博記念公園だが、基本的にただの公園であって、地形的な名残とごく一部に当時の設置状況を記した案内板が地面に埋め込んであるのが残っているだけである。公園部分を除いてはアステラス製薬であるとか、ダイキンであるとかが跡地を取得して工場やら何やらを建てており、そちらの方が未来的だ。企業の敷地なので入ることはできないが、アステラスの敷地内を当時の小道が走っていて、そこだけは通り抜けることができた。そうして抜けてしまってから最寄りの駅へ行こうとすると、また1kmほど歩いて北上し、研究学園駅に辿り着かねばならない。この駅も周辺の開発部分以外何もない感じだ。つくばの駅では売店で良質な農産品が格安で売られているが、本来はこういう土地だから、変に人造的な方がおかしい。

終点のつくばに着くと、ここだけは明らかに違った。人造的な開発はこれぐらい大規模かつ徹底的にやらないと様にならないのがよくわかる。つくばという都市はちゃんとした理想を元に建設された都市だが、途中はしょーもない私欲と我田引水で中途半端に開発しただけなので、比べるのが失礼というものだろう。

当時の制服やら映像やら展示品やらはすべて、つくばエキスポセンターにあり、ここは内部のかなりの部分が子供向けの科学を体験する色んな装置が置かれていて、これはdigital化が進む前のarcade(ゲームセンター)に近い。万博の展示品にそれほど場所を取っている訳ではないが、当時を窺わせるのに十分で、映像などを見ていると色々思わせるものがある。

ちょうど始まったplanetarium(プラネタリウム)も見たが、かなり甘い感じの内容で、当時の映像やら、もっと子供向けであっても科学を主題にした内容にして欲しかった。

<日本と海外の比較>
 ・欧米は、科学研究、科学教育普及。
 ・日本は、健全育成、教育普及
 ・日本では科学をあまり重要に扱っていない。
 ・欧米ではサイエンス=真理の追究

<扱う内容について>
 ・欧米では、現代天文学、現代科学一般、星の探し方、古典天文学、科学史、民話、SF
 ・日本では、星座の探し方、星座神話、古典天文学、現代天文学、科学史、童話・民話・民俗、ファンタジーや恋愛物語、SF(非科学的なものも多い?)など
 ・欧米はサイエンスで勝負している。

<表現方法は>
 ・欧米は、具体的、動的(ビデオシアター化)、沢山の映像素材、エンターテインメント、仕掛けが多くダナミック、情報量が多い、アップテンポ、論理的
 ・日本では、情緒的、静的(電気紙芝居)、映像量が少ない、美しい星空中心、癒し系

研究会「プラネタリウムの役割と使命を考える」内容報告

全体に番組は上の比較通りで、科学都市であるはずのつくばでこれほどの設備で、情緒的内容だけではもったいない。

planetariumを出ると、既に日が暮れかかっていた。駅へ向かいながら、この三十年の積層と日本という場に起きたことを想う。

個人的に、こういう人が群れ集まる祭りに自分から好んで参加する気はまるで無い。大量の人がいる時点で、それ自体に疲れてしまって楽しむも何もないといった具合であるし、所詮そういったことは一場の夢であろうという、醒めた心も根深くある。しかし、そこに見た夢が真に良きものであるなら、それが普通のやり方で叶えられないものであるとしても、それはなにがしかのやり方で報われるべきものではないか?超常の夢は、超常の相で叶えられるものではないのか?


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