SAND STORM

朝ぼらけ

2014年9月30日

日誌 – 平成二十六年九月

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◇敗北
無益なことにおいては敗北が一番よい

◇自己管理
自己管理において、色々調べていけば、意識を使った管理は頭を働かせている最中はできる。
しかし、本当に重要なのは無意識次元の管理で、これが放っていてもちゃんと回るようにしていかないと、意識での管理など限られたものなので、結局はうまく行かなくなる。
人間の無意識の領域というものは、脳の古い部分とそれに密接に連なる消化器官など、感情や存在の根の部分にある。
それをよくあらしめるには、単なる観察ではなく、瞑想が必要になる。

◇めざし
ずっとタガメや蜂の成虫みたいな本格的な虫を食べたいと思っていたが、質のいいメザシが効くな。
大人になるとピーマンやら珈琲やら苦味のある食べ物がいかに身体に効くか、だんだんとわかるようになってくるが、早くThai辺りにでも行って虫の唐揚げを食いまくりたいものだ。

◇Psychopath(サイコパス)
ピエール瀧とリリー・フランキーの怪演が光る、茨城の上申書殺害事件を題材とした映画『凶悪』を見て興味を持って調べてみたが、映画と違ってpsychopathは先生一人、後は違うようだ。映画では主役の記者、その妻、主犯の先生とヤクザすべてがpsychopathだったとされるが、真正のpsychopathは先生だけで、ヤクザは反社会性人格障害、記者は事件にのめり込んで家庭を犠牲にした仕事(使命)中毒。妻は単に介護に疲れた普通の人。

映画『凶悪』残虐性は「人間が持つ普遍的な暗部」と描く。だが最新科学は先天的障害であるとする | 横浜映画サークル

残虐な犯罪者に絡めてpsychopath(サイコパス)を語ったものは多いが、これだけ文献を駆使してpsycopathそのものをわかりやすく説明した記事はそうないんじゃないだろうか。

反社会性人格障害とPsychopathは別の障害で、特に後者は脳の扁桃体の機能不全であり、他者への共感が根本的に欠如しているため、通常の人間なら反応することにはまるで反応できない。その為、他者への共感(mirror neuron)による痛みや、嘘をつくことへの良心の呵責が存在しない。psychopathは反社会性人格障害ですら嫌悪するような異常極まりない残虐行為によってようやく機能不全の扁桃体に刺激、すなわち「生きている実感」を得ることができるので、一度味を覚えると際限無く凶悪化しつつ、そのような行いを繰り返すという救いようのない存在だ。猫など動物の虐殺がその前兆として現れる事が多く、おねしょも特徴だという。

良心の呵責や他者に共感して影響を受けることがないので、むしろpsychopathの周囲にいる人間がそれに一方的に感化されて凶悪化するという説明も納得がいく。女子高生コンクリート詰め殺人事件などはその典型だろう。いわゆる”いじめ”には、様々な理由が存在するが、異常に凶悪かつ執拗なものは、中心にpsychopathが関与しているのではないだろうか?

◇空

人は刺激や物に囲まれていると、それに振り回されるばかりで、創造の心を起こさなくなる。場を空にしていることによって、何か作業したり、創ったりしたくなる。

空の部屋、空の心こそ本当の贅沢であり、真に必要なものだろう。

◇気温
しかし、まぁ、家の中に住みながら
俺ほど季節の変化を感じながら生活してる人間もいないね

◇残暑
数年ぶりに、さわやかな残暑だ
涼しくなった後に、ここちよい暑さが訪れる
ひとしきり掃除をして、風を浴びていると
人生の細かいことなど どうでもよく
分解されて空の一部にでもなればそれでよいという気になる

◇Radikool

radiko premiumを登録したのはいいが、録音機能がないので、こちらが時間をあわせないと聴くことができない。そんなことは苦手もいい所なので、結局、目当ての番組はほぼまったく聞けていない。予約録音utilityは三千円ぐらいする有料のものなら幾つもあるが、premiumで金を取られた上にこれ以上払うのも癪なので、freewareのを探したが、まともに使えるのはこのRadikoolだけの様だ。機能的には番組表の取得、予約での単発・毎日・毎週録音、保存方式の選択などを簡単に行へるので、利便性は市販品にも劣っていない。ただし、操作しているとfreezeしたり、premium accountの登録が送信を押しても機能せず、keyboardで直接formの中でenter keyを押さねばならなかったりと不具合もそこそこある。

◇IRIBラジオ日本語

IRIB(Islamic Republic of Iran Broadcasting)=イランラジオ日本語ってのは、イランイスラム共和国国営放送がやってる、Iran国営放送の日本向けの日本語放送だ。radioでの生放送自体は1999ADから、internetでのsimulcast(サイマル放送)もやっていたみたいだけど、今月からarchive化して公開しているので、いつでも好きな時に過去の放送を聴くことができる。

第1項
全ての番組は、イスラムに則ったものとし、イスラムの原則に反する番組は放送しないこと。
第2項
独立、自由、イスラム共和制のスローガンの結晶である全ての番組は、イスラム共和国憲法と革命の精神に則ったものであること。
第3項
先に述べた原則を遵守し、ラジオ・テレビ番組の中で、最高権威としてのイランイスラム革命最高指導者の見解が反映されること。
第4項
イスラム共和制の法規に従った、政治、経済、軍事、文化の全ての側面において、資本主義でもなく、共産主義でもない、独立した政策が完全に実施され、自給自足を達成するための土台を作ること。
第5項
IRIBは、哲学、政治、社会、文化、経済、軍事のあらゆる分野において、社会の向上と知識の普及を助け、一般の大学のような役割を果たすこと。
第6項
個人の人間的な尊厳を重視し、イスラムの原則に則り、個人の聖域を侵さないこと。

中身は清々しいぐらいIslamの教えに沿ったもので、qur’ān(コーラン、クルアーン)の読唱や、伝承などがnewsの合間に次々と挟まれるので、聞いていると信者になりそうだ。単に聞いていて気持ち良いということで言えば、日本のどうでもいい音楽をひたすら垂れ流す放送より、遥かに上。

聞いてて思ったけど、technoみたいな電子音楽と宗教系の読唱って相性が良いな。

◇浅野誠 「火の見櫓とドッジボール」別冊宝島133 『裸の自衛隊』 宝島社 (1991年5月30日) 177-183頁

 この世には大きく分けて二種類の人格特性があると考えられる。ひとつは分裂病親和型、もうひとつは執着気質型である。几帳面に熱心に働くことを第一とする生産主義社会においては、後者の人間が主流となる。分裂病親和型の人間が、彼のように失調者になりやすくなったのは、十九世紀産業革命以降のことである。
 分裂病親和型人間は、クールで瞑想的で、非常に細かいところに気をつかうかと思うと、ときに非常な大胆さを発揮する。ただ粘りには多少欠ける。それに対し執着気質型人間は、馬力もトルクも大きいが、やや敏感さを欠く。
 分裂病親和型人間は、現在の執着気質型主流の企業社会では、かなり生きづらい。組織に全人格を捧げるのを拒むゆえに、彼らはフリーターや芸術家を目指す場合が多い。また逆に、仕事に対してクールに接することのできる公務員を指向する場合もある。公務員の評価は、一般に減点法でなされる。突出した手柄をあげても、組織内での評価は高まらない。つまり、いいことをするよりも、失敗しないことを最上とする組織なのである。繊細であるがゆえに、自己の安全について常に無意識の不安を抱えているので、それを補おうとするために武器へのあこがれも強いだろう。

浅野誠は精神科医。性格論・気質論は古代Greekの頃からあるが、Rudolf Steiner(Wikipedia)のそれが優れている。

私が学んだシュタイナー教育 - 4つの気質 一覧表

Steinerの四類型(胆汁質 多血質 粘液質 憂鬱質)を読めば、何がしか自分や他人に思い当たる所があるはずだ。血液型などより遥かに有用で中身がある。

 しかし、自衛隊内で発病した例はほとんどない。枠の中で決められたことだけをしていればいい自衛隊ほど、分裂病親和型の人間にとって過ごしやすい場所はない。また、彼らの敏感な心も、階級で明快に定められた軍隊の人間関係の中では傷つけられずにすむ。だから、彼らが発病するのは自衛隊を辞めて、外の社会に入ってからである。そこは、執着気質型人間に支配されている。

 こういう人間たちを多く抱える自衛隊は、あまり好戦的な軍隊にはなり得ないだろう。もともと分裂病親和型の人びとは、戦争をしたいというよりも、自己の安全と安定を得るために軍人になったわけだから、本質的には戦争を始めることについて慎重である。

 日本が海外派兵、侵略などの可能性を持つのはむしろ、目下、企業戦士として経済戦争を闘っている執着気質型の人びとを徴兵して組織した時である。彼らは長期戦に耐え、勇敢である。しかし、分裂病親和型の人びとより勘が悪い。ドッジボールで言えば、果敢に前に飛び出してアウトになりやすい人たちだ。

 適当なところで引き上げる能力も、どうやら執着気質の人間には欠けているようだ。

これは単純に間違っている。兵士は戦争を始めない。戦争を始めるのは政治家もしくは、政治を乗っ取った軍上層部である。兵隊は関係ない。その軍上層部を構成する参謀連中を育成する陸軍幼年学校・士官学校が執着気質型を生み出す温床であったから、あそこまで酷いことになったのだ。辻政信や牟田口廉也は執着気質の典型だろう。

分裂病親和型の兵士が多い軍隊の特性は、単に軍隊として”弱い”ということである。

◇頭

少しばかり頭が使えるようになってきたよ。
前に戻りはしないが、新しく構築されてはいく。頭も筋骨と同じで僅かづつしか変わっていかない。どう刺激していくかの問題なんだ。

◇別冊宝島133 『裸の自衛隊』 諏訪哲二 interview分 宝島社 (1991年5月30日) 148-155頁

諏訪「学校の教師というのは、民主的にやれば生徒は従ってくれるはずだと思っているから、生徒とやたらと話し合おうとするんです。たとえば、自衛隊の命令とは逆に、自分の指示や命令の意味を、「あなたのために言ってるんですよ」というかたちで延々と説明するという習性が教師にはあるんです。ところが、話し合いというのは、一見なごやかに見えるけど、本質的にはすごく抑圧的なことなんですよ。自分の考えに相手を同意させようとすることは、相手の内面を支配しようとすることですから。」p.150

根本的に目的や志向を異にしている人間同士が、話し合って何か合意を見出そうとすることほど不毛なこともない。

諏訪は当時「プロ教師の会」の思想的指導者で、自ら自衛隊に体験入隊して隊員と付き合った上で、「高校で教師を殴って退学になったり、家庭内暴力をふるったりしていた、いわゆる落ちこぼれや不良少年たちが、自衛隊のなかでは見事に規律を守れるようになっている」理由を語っている。学校で校内暴力の対象になる教師は、極端に管理的であるとか放任的であるとかいった偏った特性が原因ではなく、態度が一貫していないことだという。

他にも学校で掃除をさせることについて、学業をやりに来ているのに、生徒に掃除させるのは無意味だといった「市民社会の論理としては圧倒的に正しい」批判を、「子どもたちが掃除なんかやりたくないと思っているからこそ、そしてそれがどう考えても不合理なことであるからこそ、やらせるわけです。つまり、人が社会の関係性のなかに入るためには、自我が許容できないようなこともあるんだと学ぶ必要があるということです。」と肯定する。ここら辺りはモノにより異なるだろう。掃除の様なやりたくなくとも誰もがかならずやらねばならないことをさせるのはいいが、運動会の練習で、炎天下の中、Micky Mouseの音頭を執拗に踊らせ続けることが肯定できるとは到底思えない。#1

#1 おかげで私は今でもDisneyが嫌い、正確にはDisneyを「誰もが受け入れられるようなモノ」として、押し付けてくる輩が嫌いなのだ。

今の社会には、人間は自己のすべてを実現するべきだとか、個人の意志だけで生きるのがほんとうの自由だ、というイデオロギーが満ち溢れているでしょう。「指導」という方法で、生徒の内面に踏み込んで全人格をコントロールしようとする教師も、実は同じイデオロギーに支配されているんです。そして、生徒を本質的に抑圧しているんですね。

―――諏訪さんは、人間というものはもともと限定的なものだとおっしゃるわけですね。

諏訪 それはそうでしょ。「人間なんてものはあくまで抽象的概念であって、具体的にはみんなそれぞれまったく違うわけですから。それなのに今は、学校は人間を育てるところだとか、すべての子どもは等しく向上するべきだとか言うわけです。バラバラの個人を「人間」なんて言葉でひとくくりにして、ある価値観を一律に押しつけるほうが本当はずっと抑圧的なんですよ。

自衛隊、もっと一般化して軍隊でもいいんですけど、そこでは人間を育てるなんて言いませんよね。p.153

「内面の自由を尊重したまま外枠だけを押しつけるという以上のことはできないし、やってはいけないと思うんです。さらに言えば、近代市民社会の成立期に、軍隊は学校と同時に発生したんです。だからそこで考えなければいけないのは、近代において、あるいは国民国家において、イニシエーション(通過儀礼)が学校や軍隊に担わされたという問題なんですね。」p.154

これには重要なもう一面がある。本来、人間を育てることをやっていた家や地域、伝統が時代の変化があるとはいえ、政策として構造的に否定、解体し続けられたということ。戦前は、nationalとしての共通した国民をつくるために、戦後は南北戦争で負けた南部が伝統・文化・思想、あらゆる形で否定されたのと同様に、反抗する日本を形成した様々な文化や伝統の解体のために。

「明治期の学校や軍隊は、その役割が非常に限定されていたんです。要するに「天皇の赤子」をつくるということであって、それは外枠にすぎないんです。それ以外の人格は、依然として地域共同体や親が教育していた。学校が人間を育てるという「全人教育」になったのは戦後であって、それ以前はそういう発想すらなかったわけですから。だから、教育が抑圧になったのは、戦後なんです。」

つまり、戦前は「皇居に向かって敬礼」だの教育勅語だの、外見的にはいかにも思想統制をやっているようでいて、実は共産主義国家などと違い、地方や家のそれぞれがかなりの部分自治でやっていた。戦後は一見、外枠の抑圧は消えたが、自治が後退して内面の支配・抑圧は圧倒的に深まった。

―――自衛隊に入ってまともになった子、辞めて実社会に出るとまたまたうまくいかなくて、再び自衛隊に戻る例も多いんです。
諏訪 彼らは自衛隊という枠の中で安定していただけで、全人格的な変革があったわけじゃないから、それは当然でしょうね。自衛隊と違って、人間性を全開して生きることが正しいとされている現実社会、つまり欲望はすべて充足していいんだよというメッセージを与え続けるこの社会では、必然的に内面は傷つけられるわけですし。p.155

現実に殺し、殺されるという場面では、社会全体のコンセンサスに支えられた精神性がどうしても必要になってくるんじゃないですか。普通の人間は外枠だけで命を賭けたりできませんから。命令されれば中東だって行くでしょうけど、向こうで初めて、自分を支えるものが何もないということに気づいて、それこそ第一次世界大戦のロストジェネレーションやベトナム帰還兵みたいなことになる。 p.155

武士道だの、「お国のために」だのが実は戦争においては重要だという話。日本から見るとUSAの退役軍人会の言っていることはかなり偏ったものに見えるが、そういう戦時宣伝でつくられていた精神的な報いや前提を否定されたら、その中で厳しい戦争を生き抜いた自己の実存そのものを否定されるのだから、強硬に戦時のpropagandaにこだわるのも理解できる。

10-27頁に外人部隊などを渡り歩いた毛利元貞らが教官となり、特殊部隊向けの限界まで希望者を追い詰める体験教室の取材があるが、本能次元で極限状況での戦を求める、一般社会に暮らしたら何かの犯罪を犯しそうな人間でも傭兵の様な形で生きれば、世のため人のため?に充実して生きることができるのがわかる。


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