SAND STORM

朝ぼらけ

2014年10月22日

日誌 – 平成二十六年十月

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◇桃知みなみ
最近のニコ生を見ていると桃知みなみが面白い。

◇不憂民萌

趙氏,中央之國也,雜民所居也。其民輕而難用也。號令不治,賞罰不信,地形不便,下不能盡其民力。彼固亡國之形也,而不憂民萌。『韓非子』《初見秦》

趙の国は諸国の真ん中に位置して、様々な住民が暮らしている。その民は命令してもろくに聞かず、賞罰を下しても信じて従うことはなく、地勢は守るに不便で、もとより国が亡ぶのが自然の形である。にも関わらず、民は萌えて憂いがない。

趙というのは、当時西の大国秦と東の大国斉に挟まれた中原の国の一つで、元は晋という大国であったのが韓・魏・趙の三カ国に分かれてしまったものだ。この晋の分裂により、諸大国の勢力均衡は崩れ、旧時代の遺風を残した春秋時代の在り方が情け容赦も礼儀もない戦国時代へと変わっていく。激しい競争の中で、諸国の王侯大臣は諸子百家と呼ばれる新進の思想家に教えを請い、時には宰相の位にまで就けて国の運営を任せた。孔子・老子・孫子といった有名人は元より煌びやかな百家の時代が訪れたのだ。

その都邯鄲は、「邯鄲の歩み」の故事で有名なほど流行の発信地だったが、民衆は萌えていて憂いはなかったという。

「邯鄲学歩」荘子≪秋水篇≫

◇萌

夫民之為言也,暝也;萌之為言也,盲也
大政下 『新書』 賈誼

民衆の為す言説などというものは、世の中というものをほとんど何もわかっていない暝(くら)いものだ。
これが萌えている連中の為す言となると、萌えている対称以外のことなど何も見ていない。

大体合ってる。

民が盲なのは、古代から言われていることだが、現代の病は暝(くら)いことを自覚するのではなく、一方で表層的な教育とそれによる地位決定が、一方で下に阿(おもね)り、その感覚を満足させて掠め取るTVを始めとする情報が垂れ流されているせいで勘違いが蔓延っていることだ。

暝でありながら、自分を暝とも思わない輩よりは、萌であることを盲と自覚して萌えている方が遙かにまともである。

◇橋下徹なるゴロツキ
在特会会長と橋下大阪市長との”意見交換(全文)”なるものが行われたが、酷いものだ。両者が酷いのではなく、橋下がだ。冒頭で在特会側は”ヘイトスピーチ”の定義について尋ねている。これについて橋下は何ら答えることなく、一方的な物言いと罵倒暴言に終始した。

この男は身勝手な解釈で言論の自由を抑圧する法制度を成立させようとしている。在特会がどうであろうと関係ない。橋下が何ら定義の定まらない理由で言論の自由を抑圧しようとしていることが最大の問題だ。この橋下は韓国で恣意的な言論弾圧を繰り返している朴とまったく同質の輩であり、その性質から言えば、北朝鮮の金一族地味た臭いすら感じさせる。

“飛田新地に帰れ”は暴言でなく、正に橋下にお似合いの言葉だ。

◇食事
食い物は適量ずつ食べれば得る
一度に食べれば食料も、お前自身も失う

◇蛾
秋になって夜が寒くなった
夜に自動販売機に飲料を買いにいったら、一匹の蛾が蜘蛛の糸に釣られてもがいていたので救ってやった
それも今では駐車場に肥えた骸を並べている
お前たちは短すぎる
それでも一晩とはいへ、あれほど狂おしく飛び回れたのだから
それこそが満足か?

◇退屈
平凡な毎日が退屈だという者がいる。
その平凡な毎日の積み重ねがどのような結果を招くかを知っていれば、人は決して退屈ではいられないだろう。
ただ食事をすること、近くを散歩すること、寝転がっていることすら、刺激的である。

◇心の乱れ
千々に乱れし心は あの者にこそ取っておきたいものだ

◇言語学習
学習全般に言えることだが、その本質は繋(つな)ぐことにある。

自分という既存の肉体・脳神経網に新たな何かを繋ぎ発展させる、それこそが学習だ。それに対して、いわゆる「勉強」というものは、それを無視して、繋がらない知識を人間の持つ短期記憶領域に摺りこんでいく。自分そのものである神経網と繋がらない勉強は、周囲の環境によって強制されなくなれば速やかに忘れ去られる。脳にとって不要で余分なものに過ぎないからである。

外国に言語学習目的で行った人間が、その目的であった言語含め碌に何も身に付けることなく、もっと別の仕事や大学などを目的で行った人間が言語含め様々なことをよく身につけるのは、切り離された言語でなく、その言語が生きている社会のすべてを学び身に付けるからである。そこで言語は当たり前にすべてを繋がったものであり、自己の肉体にも一体となってそれは入ってくる。

つまり、本当に学ぼうとするなら、既存の自分を最大限に生かし、それにつなげていくことこそが重要なのであり、趣味・性質、求めているもの、それらを抜きにした学習はあり得ない。そういった所を見ずに勉強だけを押し付けても大概無駄である。

◇敵意
結局、己の中に生まれる敵意こそが敵ということだよ。

◇送った
なんとか区切り前に送ることができた。

◇橋から落ちる

先日、夜に運動していたら、歩いて橋に通りかかった際、猫か鼬(イタチ)の様な動物が欄干の下にいて、暗闇から現れたこちらに驚いたのか、慌てて橋の外側に逃げ出し、滑り落ちて体を打ちつけ、重傷を負ったのであろう、憐れな声で鳴いていた。

事故を防ぐことも、救うこともできないので放置するしかなかったが、よくよく考えると、人間社会の保護の幻想を剥ぎ取れば、自らに責任を負う一つの獣として自分もまた同じである。その獣は橋の外側に水道管が貼り付いていることを知っていたからそちらに逃げてしまったのだろう、しかし、視野もよく効かない中で慌てて飛び乗って滑って転げ落ち、自らによって自身を傷つける羽目になってしまった。あの様な獣であれば、焦らなければ狭く危ない場所でも走り抜けるのはお手のものであり、5m近い高さであっても、意識して飛び降りれば大したことはなかっただろう。

損害や事故というのは、およそ自分の予測外のことが起きるから発生する。過信の様な判断以前の認知の誤りや、衝動に身を任せて判断そのものを捨ててしまえば事故が起こらない方がおかしいだろう。いずれにせよ結果は己と周囲を傷つけるだけだ。いつでも、焦らず状況を把握し、適切な手を取れば、被害といえるほどの被害は避けられるものだ。

何にせよ、これは己の目の前に現れた知らせであり、省みて教訓として多くのことを汲み取り生かすしかない。


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