SAND STORM

朝ぼらけ

2014年11月15日

[旅行記] 足利 壱(足利学校) – 平成二十六年十一月

Filed under: 未分類 — Tags: , , — sajin @ 11:55

◇男体山

「いやー、来たなぁ」・・・って来すぎた。栃木で降りるはずが日光の近くまで来てるじゃないか!

急いで栃木まで戻って、両毛線に乗り換えて足利まで着いた頃には13時直前になっていた。途中、車窓から沿線の風景を眺めていたが、日光方面は奥地の割に家々に貧しい所がない(上は両毛線からの風景)。また、日本全国ほとんどで、1980年代後半辺りから起きた安っぽい消費文化への無理な切り替えがなく、変容が自然であった。

◇足利

目的にしたのは足利市で、ここは昔足利荘という荘園があり、南北朝時代から室町時代の将軍足利氏はここで苗字を取って生まれた。

駅に着くと、足利市は歴史都市宣言をして、いまようやく歴史中心に再開発をしている最中のようだ。足利氏の価値を考えると、戦前か戦後でも太平記が大河で取り上げられた数十年前にやっておくべきだったことだが、やらないよりは、やった方がいいには決まっている。

もっとも駅前にそういった風情はまったくなく、下調べをした時も思ったが、あまり歴史を重視してこなかったのであろうな、という態ではある。

◇足利学校

足利学校というのは、一説には古代の官学を足利氏かその親戚である上杉氏が再興したもので、一時は数千人の門下生を擁し、Francis Xavier(フランシスコ=ザビエル)に「日本国中最も大にして最も有名なる坂東(ばんどう)の大学」と称えられるほどの規模だった。特に、軍師=戦場での占いを行う者を生み出したので、戦国大名は元より徳川家康の庇護を得て江戸中期までは栄えた。しかし、火災が連続し、明治時代に入るとまったく顧みられなくなって、書物なども古本屋に売り飛ばされ、危うく建物も完全解体、消滅する所を相場朋厚・田崎草雲らの奔走により、現在の文化遺産として姿を残すことになった、という流れだ。

今はなくなってしまったが、江戸時代は宗教としての儒教が漢学とともに日本に持ち込まれて信仰されていたことがあった。儒教というのは支那の古代宗教と孔子・孟子などの儒学が混ざったもので、仏教ではなく儒教式の葬式を行っていた武士などもいたのだ。

門をくぐって中に入ると、学校をとりまく庭としての完成度、居心地の良さが素晴らしい。

足利学校史跡内マップ

庫裡(くり)の表には宥座の器という水を適度に入れると水平になる、物事は足りなくても足りすぎても良いことにはならないという中庸の教えを形にしたものがある。おもちゃ・遊びで教えを体験できるというのは単に書いてあるのを読むこととは質が異なっていて、こういうのがinteractiveの元だと思う。

土間が玄関になり脇に竈(かまど)があって、上を見ると小屋組の複雑さが壮観だ。

庫裡とつながる方丈は現代では身近で味わえなくなった風通しが良い日本建築の良さが存分に出ていて実に気持ちいい。

もちろん屋内の儒教関連展示品も興味深いものばかりだ。

遺蹟図書館では小さいながらも図書室があり、庠主展が行われていた。保存活動が為されず足利市にこの学校がなかったら歴史の街としての足利はその名前だけということになっていただろう。

◇鑁阿寺(ばんなじ)

学校のすぐ隣に鑁阿寺(ばんなじ)という足利氏創建の寺があるのでついでに訪れる。四方に堀を張り巡らせ、本堂は国宝指定、内部は児童公園も備えるという立派な寺だが寺域に入るのに拝観料は必要ない。

それもそのはず、大銀杏や立派な塔、娯楽性のある鐘やおみくじなどで自然と自発的に拝観料を払って手を合わせるようにできている。

国宝の本堂とボーンという音のする銅鑼

何の気ない石も高さと配置次第で宗教的だ。ここは頭を使わなくとも入って、短い時間見て回るだけで楽しめる良い意味で娯楽性のある寺だと思った。

次の目的地へ向かう途中で区画整理反対の看板が幾つもあったが、これは支持したい。戦後日本で街の文化が破壊された最大の要因として、足で歩くことを前提につくられてきた街が、自動車前提のものに変えられたことがある。特に地方・郊外で商店街は滅び、古い文化は断絶して薄っぺらなchain storeばかり蔓延るようになったのは、急激な車社会化が半ば国策で進められたことが最大の要因だ。足の街が破壊される時、そこに歴史は残らない。


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