SAND STORM

朝ぼらけ

2014年12月18日

日誌 – 平成二十六年十二月

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◇山と藪
一週間ほど想定の何倍も歩き続ける日を、まったく異なる環境で外的刺激がもたらす駆動により過ごした。それでも旅に出る前から続く、どうしようもない肉と神経が底から上がってこない感じは続いたままだったのだが、昨日道を違えて藪まみれの峠の生えた草やら藪やらを抜けると体全体に刺激を受けて、身体が動いていく状態に変化した。脳の奥の方の活動がまったく異なっている。あらかじめ意味を想定することは間違いで、無意味さを抜けた先に肉体の変化と覚醒があるのだ。

最近は脱法麻薬の類が流行っているが、薬で一部だけ興奮させたり弛緩しても、環境や肉体の自然の在り方との落差により廃人になっていくに過ぎない。脱法dragより山と藪だ。

◇三浦半島

朝からどしゃぶりだった。三浦半島は基本的に田舎なのだろうと思っていたら、途中は完全に開発されきっていて、さすがに鉄路が途切れる先はそうではないのだろうと思っていたら、半島の端まで宅地開発されていた。船で城ヶ島にわたって一周する。港周辺は鮪(まぐろ)を売りにした観光が盛んで、集団で訪れている客が多い。あまりにも観光地化された土地というのは、他所から訪れる客は金でしかないので居心地が悪い。

島から橋をわたって港へ帰り、busで油壺へ向かう。

単に城跡を見に来たつもりだったが、なぜか海岸沿いを危ない目をしながら一周する羽目になった。雨で岩場が濡れて滑る滑る。

まったく理不尽な形で大自然に向き合っていると思考の無意味さを感じる。

結局、海岸沿いにあるかのように書いてあるものはすべて台地の上からしか行くことができないものだった。嵌められたのだ、私は!数kmにわたって一周以上海岸の岩場を歩いた挙句、この錆びて崩れかかったpipeで組んだ階段を登って藪を抜けてもともと到着したbus停の前に出る(写真をよく見るとわかるが、横棒は踏むとほぼ確実に折れるほど錆びている。)。

台地の上をうろつくと、半島の手前まで宅地開発され、半島の中は東大の海洋研究所や京急によりhotelやmarine park(海関連動物園)として開発されている。城を味わいたいなら岸壁を彷徨うのが一番ではある。

◇年忘れの祭典
慈悲深い女だ
立たぬものも立つよ

◇街々雑感
・川崎
清々しいほどにガラの悪い街。
・横浜黄金町~伊勢佐木町
巨大なる下町。異種混交で居心地がよい。
・名古屋
一番金を渡しては行けない類の人たちに豊富に金を渡した村。
・西尾
古都。

◇真冬
冬は人を狂わせる
囚人として 獄舎を管理し 生ける獄

◇死
とにかく訳のわからんクソ坊主だとか、クソ家族に意味不明な葬式あげられたり、妄想まみれの解釈付けをされると思うとまともに死ぬのなんて真っ平だね。誰も関わらないように野垂れ死にして虫や獣に体を食わせて一刻も早く骨も残らない土に帰りたい。

昔は冬山に登って裸になって座禅でも組んで凍死しようと思ってたが、人間体をやるとダメなものだ。とにかく死んでからまで人にごちゃごちゃ扱われるかと思うと怖気がする。太陽にでも突っ込んで死にたい。

◇天皇
文化としての部分的重要性は残っても、天皇なるものはもう統合・結合の象徴としては賞味期限切れだと思う。
戦後の反日左翼なんてのは結局残存していた天皇への甘えでしかなかった。いくら壊しても壊し足りないほど伝統があると思ってたから、アレほど暴れまくった。反戦平和とか出鱈目に酔いながら甘えてきた世代の引退と平成天皇の崩御でそれも終わるよ。甘えさせてくれた伝統を容赦なく、あの世代が食いつぶし、日本国民は数が増え過ぎ、他所から呼び込み過ぎて実感として日本人≒家族・親族ではなくなった。

結局この国は多民族国家にしようとした帝国の残滓だから、帝国の統治をしない限り上手くいかないんだよ。単一民族なんて幻想に帝国の失敗の後にまで耽っているから、その「単一民族」にだけ負荷が課せられて、単一でない人々が好き勝手やって儲けるという構図になる。

◇去勢保守
保守の人って過去にあった自明の前提に酔ったり逃げこんで格好つけする人が多いから、正しい差別を進めていこうってのがいないよね。これほど攻撃的主張を去勢したり、それに加担してる右しかいない国も珍しい。属国の性、自己家畜化。

◇老人洗脳
「老人だからやさしくする」などという、老人がほとんど生き残らなかった数千年前の儒教信仰から生まれた意味不明な洗脳はいい加減解除すべきじゃないかなと、人が比高250mほどの山に自転車押しながら人力で登ってる脇を車でスイスイ登りながら、どう見ても間違い様のない一本道で執拗に尋ねてくる人たちに遭遇して思った。
電車の優先座席もたっぷり医療受けて日頃ぶらぶらしている老人と苦しい環境で身を粉にして働いている現役世代では後者のほうがよっぽど優先されるべきなのは自明だ。誰が本当に不健康で辛いかなぞ年齢で計れるものじゃない。
この国の妙な差別制度はすべてそういった儒教信仰を悪用して行われている。本当にきっちり礼儀を守ったり日本の伝統的あり方の中で役割に殉じている老人や女性は助けるべきだが、そうでない人が舐めた要求をしてきたら、攻撃的に断るか金でも取るべき。そういう連中に迎合しても増長させて害を拡大するだけで、いいことは起きない。

「老人だから」「女性だから」「子供だから」なんて色眼鏡を外して見た方が、その人が本当に優先されるべき存在かなんてのはよく見えるんだよ。

◇厳冬
この寒さで、名古屋→西尾(豊橋)→小田原→横浜→東京という行程を組んだことを後悔している。

◇三年後の今年の漢字
「脱」

脱法・脱お上、辺りが庶民の課題になるんじゃないか。

◇従僕
一定以上の力は他人に従っていては発揮されない

◇消費税

日本というのはそもそも加工貿易で成り立っている国だ。原料を輸入して加工し、付加価値のある製品を外に売って外貨を稼ぐ、いくら内需があった所で、輸入がある以上外貨を稼がなければ生きていけない。外貨を稼ぐという点においては、魅力のある、つまり付加価値の高い製品でなければ世界の安い労働力との競争に負けるので意味が無い。魅力的で質の高い製品をつくるのであれば、日本の中産階級が多様かつ頻繁に消費し続けることが、独自性に満ちた付加価値の高い製品が生まれるための必須条件である。戦後日本の良い所は焼け野原からの復興(開発途上)から高度成長を経て、趣味や娯楽性に満ちた目新しく質の高いものを求める消費を行い続け、それがまた世界で通用する付加価値の高い製品を生み出すという好循環にあった。

消費税は、この消費という血液の流れを締め付けて血の流れを悪くし、終いには首まで絞めて窒息させようとしている。消費税が上がれば上がるほど、所得の低い者(低所得階層、若者・子供)が楽しく質の良い消費に関わることを困難にし、その機会を減らしてしまう。その様な環境から他国の人間が買いたがるような魅力的な文化が生まれる可能性は低いだろう。仮に軽減税率が衣食住の最低限の部分に適用されたとしても、肝心の質の高さや娯楽に関わる高付加価値の製品に高い消費税がのしかかるようでは、魅力的な製品やserviceの発展など覚束ない。また、riskを取って、全く新しいものを生み出そうと日々苦心している芸術家・発明家・起業家などに厳しい負荷をかけ、失敗した場合の再起を著しく困難にしてしまう。努力して自分で稼ぎ生活する人にとって一番の福祉は消費にかかる税が安いことに他ならない。

日本にとって消費税は百害あって一利もないものであり、すべて撤廃して消費を最大化する以外に積み上げた文化的優位を活かして生きていく道はない。消費税が上がるたびに、目に見えて、実感として日本が悪くなっているのは偶然ではない。

◇砂糖と果糖
砂糖と果糖は似ているようで働き方がまったく異なっている。

砂糖は明らかに重く、後を引き、癖が強い。一度に大量に取ると病気になる。果糖はその影響が軽く、後を引かない。流れるように脳に入り込む。

◇A.D.2015
オウムと阪神大震災の1995から今年まではひとつの時代だった。来年からは別の時代だろう。

◇オタク
昨晩から朝近くまで25度の焼酎を飲みながら傍聴していたが、より矛盾と懸隔が明らかになり、通常の変容では合わせることすらできないだろうという認知と覚悟に至った。

そこで考えると、「おたく」というものの特徴が、それまで道楽・数寄者と呼ばれていたものと異なるのは、子どもじみたものに愛好を示し続けるという所にある。

大人なら当然「そんな子どもじみたこと恥ずかしくてやってられないよ」「いい年して何やってんだアイツは」「いい加減に卒業しろ」ということを最優先の重要事として本気になり続けている者がおたくだ。大人というのは生物的な継続、それ即ち人間における社会的地位の維持と向上を第一に考える者のことを言う。おたくはそうではない。おたく的とされる趣味でも、それが収入なり何なりで社会的地位の保持・向上に繋がるようなら、それは「仕事」であり、別に蔑視の対象とはならない(性的なものは別の蔑みの価値基準が働くので除く)。道楽・数寄もそれは変わりないが、道楽・数寄は羽目をはずさない限り、蔑視、即ち社会的地位下降の対象とはならない。むしろそれ自体は大人が嗜むべき、社会的地位の向上にも繋がる「高尚」なものとして受け取られ(絵画・音楽・築庭など)、高尚でなくとも、少なくとも多くの一般人にとって受け入れ可能な実用性を持つ文化である(釣り・登山・家庭大工など)。社会と妥協して中和された、もしくは自分自身が心底欲してないのに交流の道具として行われる道楽・数寄は「趣味」であり、大人としての義務を果たしながら、同時に趣味ぐらい持っていない人間は「つまらない奴」として疎外される。

自己・家族・社会の継続に反するという道徳的価値観から言えば、おたくも道楽・数寄も同じことであるが、その違いは子どもじみているかどうかにある。おたくのそれは、逃避的な意味で反社会的であり(日本で言うところの”サブカル”は攻撃的な意味で反社会的)、その実用性は一部の偏執狂の間でのみ通用するもので、一般大衆が肯定するようなものではない。

大人の高尚な道楽・数寄への反抗として行われる”サブカル”が自己肯定と露骨な攻撃性の故に目立ち、大人社会に反抗的に対峙することで支持者を集めるのに対し、大人社会に付き合わない「おたく」は子供時代を除いてその様な支持者を集めることがないので自己否定と直結し、身を隠し、嗜好を隠蔽して裏で繋がる他なかった。おたくというのは、外部に否定されても自己の本源的欲求としてその様な分野を選ぶ者であり、それは必然的に自身による表現にまで繋がる。社会的否定による篩(ふるい)をかけない限り、本物のおたくは選別し得ない。社会的に肯定された環境でのそれは、単に社会的地位を保つための交流の道具として、また金を稼ぐ為の道具として利用され、本物でない者が混じり込んでしまうのである。おたくの表面的な大衆化の背景にあるのは間違いなくinternetだが、反社会でなくとも「おたく」でいられるようになってしまったという時点で、それは既におたくではないか、そうでなければ社会の側が自己を継続する上での道徳を見失いおかしくなっているのである。

「子どもじみた」というのは二つの側面を持つ。一つは低能・知恵遅れで反社会的ということだが、もう片面は純真な人間本来の心や感性をそのまま保持し、周囲の評価など気にせず、それをそのまま表すということだ。その後者こそが、『老子』などで言及される赤子のあり様に他ならない。そこで考えてみると、確かに自分はおたく的な趣味に多大な人生を浪費しているが、それは子どもじみたやり方でなく、大人社会に対峙するものとして、それを求めてしまっている。ただし、地位保全のための交流の道具としてではなく、本源的にである。つまり自分は子供の持つ本来の良き面から諸々の形で離れてしまっており、それが器質的強制と絡むがゆえに、純粋な赤子とは救いようのない懸隔を感じるのである。

◇科学と超越と慈愛

医学の根本の「前提」は、通俗的には、たんに生命そのものを保持すること、およびたんに苦痛そのものをできるかぎり軽減すること、をその使命とすることであると考えられている。だが、これは問題である。医者は、たとえ重態の患者がむしろ死なせてくれと嘆願したようなばあいにも、またその身寄りの人たちが ーーかれが生きていても仕様がないという理由でーー 死によってその苦痛を取り去ってやることに同意したようなばあいにも、またたとえば患者が貧乏な狂人であって、その身寄りの人たちがこの生きていても仕方のない病人を助けるために多大の費用を出すわけにいかないという理由で、かれの死を ーーあからさまでないにしろ、そうでないにしろ ーー欲しまた欲せざるをえなかったようなばあいにも、あらゆる手段をつくして彼の命を取りとめようとする。医学の前提と刑法がこれらの願いを聞くことを医者に禁じるのである。だが、生命が保持に値するかどうかということ、またどういうばあいにはそうであるかということは、医学の問うところではない。一般に自然科学は、もし人生を技術的に支配したいと思うならばわれわれはどうすべきであるか、という問いに対してはわれわれに答えてくれる。しかし、そもそもそれが技術的に支配されるべきかどうか、またそのことをわれわれが欲するかどうか、ということ、さらにまたそうすることがなにか特別の意義を持つかどうかということ、ーーこうしたことについてはなんらの解決をも与えず、あるいはむしろこれをその当然の前提とするのである。
『職業としての学問』Max Weber(マックス・ウェーバー) 岩波文庫 (1936) pp.41-42

原著が出版されたのはAD1919。百年を経て人間の平均寿命は倍近くまで伸びた(Life Expectancy by Age, 1850–2011 | Infoplease.com)。

『有機械者必有機事,有機事者必有機心。』機心存於胸中,則純白不備;純白不備,則神生不定;神生不定者,道之所不載也。」

『機械有るもの必ず機事あり、機事ある者必ず機心有り』
機心胸に存ずれば、すなわち純白備わらず、純白備わらざれば、神生定まらず、神生定まらざれば道の載せる所とはならず。

注釈:神生=神性。「道」とは人間の意識外まで含めた、宇宙などまで包括した大きな流れのこと。

『荘子』 <外篇 天地>

「科学」は、いくら拡張したところで生物的限界に満ちた「人」という種が、どこどこまで行っても人間に基づいて、意識しようがすまいが、まことに人間的な利益の追求だけを目的に、積み上げてきた物質操作法の山である。

「美学は芸術の国がおそらくは悪魔の栄光の国であり、したがってそのもっとも深い内部において神に反するものではないか、またそのもっとも内奥の貴族主義的精神のゆえに人間愛に背くものではないか、ということを問いはしない」『職業としての学問』 p.46

いわゆる人道=humanismは、mass、つまり種としての人間に都合の良い環境を整えるやり方を正当化するものである。貴族ならざる大半の人間にとって、humanismは真に心地よく反論のしようもない。しかし、貴族が支配していた時代の方が自然との調和は取れていたのだ、人間愛に背くが故に。

非人間的な大きな流れの中にあるからこそ、我欲を超え、「人権」だの「道徳」だのといった政治的正しさ(political correctness)を歯牙にも止めず、貴族主義的独善をも捨てた、語らざる慈愛に回帰した超越者が必要なのだ。

◇AKB48

Oriconとかいうでまかせの番付をAKBだか何だかが占めていることに文句を言っている連中が多いが、頭がおかしんじゃないのか?

AKBがのさばる前のchartはゴキブリ同然の下半身の欲求に出鱈目な恋愛文句をどっぷりふりかけて見えなくしただけの、救いようのないJ-POPの山だった。convenience storeで垂れ流される有線放送の破壊音を聞いていると今でもそうなんだろう。

文化などというものは生存闘争と表裏一体の生存表現であり、戦後日本人にはあの程度の生存しかないということをJ-POPはあからさまに表現していた。

秋元康は日本人の救いようのない終末点を華やかな馬鹿娘どもの生存闘争の表現できっちりと覆い隠したのだ。奴こそ救世主に他ならない。

◇沈んだ谷

昔ある山間の町があった。そこの半分ぐらいが計画された水力発電用dam(ダム)の水没地とされ、地元では反対運動が何十年も続いたが、国や県は時間をかけた切り崩し工作と道路の修復・新設などを一切行わない公共事業の割り当て回避というやり方で町を衰弱させることで計画を進めた。手っ取り早くまとまった金を欲した貧しい集住地域の寝返り、高齢化と人口流出、補助金停止による衰退により結果damの建設は受け入れられた。

公共事業の金が流れ込まなかったことで、その地域は戦後四十年も経た後でも昭和二十年頃の様な光景が残り続けていた。生活様式は戦前のそれを引き継いだまま、色濃く残し続けていた。damの建設が始まると、それまでの数十年が嘘であったかのような馬鹿げた建設工事が始まる。山の中腹に無理やり道が作られ、新しい隧道が幾つも掘られた。役場は放棄され、木造の校舎は解体された。木造校舎の中には、閉校するまでに使われたであろう、年代物の道具がわんさと残されていた。

水没予定地の集落の大半は立退き料を与えられて近くの町へ転居したが、愚かな一軒だけは上流の誰も済まない奥へ移り、他が出て行って取り残された。そこは住み慣れた故郷であったのだろうが、誰もいなくなり、嘗てとは比べ物にならない姿に改変された。結局彼らは、世の中を読むことも、現代に向き合うこともせず、ただ流されるままに生き。何を伝えることすらもなく、ただ愚かさだけを残して、消えていく。賢明さも経験も何も伝えなければ、子孫には愚かさのツケだけが振りかかる。

◇孤独と駆動
根っこの所で自分を動かす理由を他者にすると、それは簡単にうつろい崩れ去って動けなくなってしまう。
人はその根において窮極まで孤立してなければならない。

◇寒い
誰が世界をこんなに寒くしたんだ?

U.D.O. – I GIVE AS GOOD AS I GET

お前の魂が少しでも鋼鉄に近づくようにこの曲を捧げてやろう
冬の冷えきった鋼鉄が蕩けるぐらい、血と肉と骨と声を叩きつけるがいい


魂が鋼鉄を通り抜けるぐらいになって、ようやく身体があったまる。


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