SAND STORM

朝ぼらけ

2015年1月31日

[旅行記] 西尾 壱(西尾城) – 平成二十六年十二月

Filed under: 未分類 — Tags: — sajin @ 04:45

◇西尾へ

名古屋の宿を朝早くから起きて、コメダでmorningのcoffee+toastにあんこといういわゆる”あんバター”を食べ、名鉄で西尾へと向かう。名鉄は私鉄のため旧国鉄のJRとは違い、階級差をつけるような駅構造になっていて雰囲気が異なっていた。

愛知といっても東半分の三河方面は東・北関東と似たような田舎かつ工場地帯であり、その中を揺られて東南の西尾へ向かう。西尾に着くと、駅の観光案内所で無料で自転車を借りられるので、早速乗って街を探索することにした(観光地図)。

西尾は桐生にも似た古びた日本の街で、一見街道の宿場町にも見えたが、城下町がそのまま残ったものらしい。整備された新しい通りがある一方で、まるで整備されない崩れそうな建物も多い。一見配管が這いまわっているように見えるが多くは蔦だ

赤まむし救生堂本舗の説明板はいかにも効きそう。

街の相当な領域が昔の城の範囲内で門の跡などがチラホラある。

街には廃墟化した、する寸前の建物も多く、これも一見廃墟っぽいが手鞄工房である。見分けがつかない。

たまたま見かけた日御崎龍神社の蛇の石像が可愛い。

日本茶が名物の一つで、古い建物を整備して茶屋やそば屋にしている所がある。そばを食べてさらに街をさまよう。

◇西尾城

西尾城(元は西条城)は西尾市の象徴として、公園化されている(歴史公園案内板)。

京都から移築した旧近衛邸は、前庭を城跡の堀を活かした枯山水にしてあり、趣味がいい。

奥へ向かうとこちらは公園化する前からある古い神社の広場で、足利氏が源家相伝の宝剣髯切丸を奉納した御剱八幡宮説明板)など神社が幾つもある。

天守閣のように見えたのは丑寅櫓(説明板)で、櫓の内部は下手に観光色を付けずに忠実に再現したので極普通だが、西尾の街並みや歴史博物館が見える。

以下、日本中世武家おたく向け。

櫓から見えた西尾市資料館に入ると、古墳からの発掘品が半ば、もう半ばが江戸時代の城主の遺品と、それ以前ここを治めていた吉良氏の系譜がある。はっきりしない所があるので館長に聞いてみると、そもそも足利氏が承久の乱の戦功で三河守護となり、三河が第二の本拠となるほどに足利一族が移り住んだ。西尾市内にも後の守護大名として有名な支族が住んだ一色今川といった地名が今に残っており、北隣の岡崎を挟んだすぐ上には細川・仁木といった、同じ有名守護大名が苗字を取った領知もある。

鎌倉方はなぜ承久の乱に勝てたか 玉川学園 多賀譲治
三河武士のやかた家康館

移り住んだ足利一族の中でも名門だったのが本家(後の足利将軍家)泰氏の弟で吉良荘の東条に入った義継、もう一人同じ西条に入った長氏で、前者が最初の(前)東条吉良氏、後者が西条吉良氏であったが、義継系の吉良氏は三代ぐらいで奥州管領として東北に移り、領地だけが残った。そこに長氏系の西条吉良氏から尊義が空いた東条を押領して独立、これが通常言われる(後)東条吉良氏である。この東条吉良氏は、西条と対立し、応仁の乱では敵味方に別れて相争った。

#ただし、異説もある(【東条城】東条吉良氏の祖は義継?|戦国きらら隊)。

西条と東条は敵対したので勢力が伸びることはなかった。そんな状況で北隣に氏素性もわからぬ松平氏(後の徳川)が勢力を伸ばし、西条吉良氏と婚姻や養子を繰り返すようになる。

時代は戦国となり、本来吉良氏の分家に過ぎない今川氏が有力大名となって、駿河・遠江から三河まで支配、ようやく情勢の不利を悟り東西二家は合一したものの、時既に遅く、結局今川氏に従属した。しかし、今川は桶狭間の戦いで織田信長に敗北して消え、以後は今川から独立した松平氏にやられて吉良氏は放逐された・・・のだが、松平氏との縁戚関係が生きて江戸時代に高家に取り立てられて、ほぼ同じ場所に領地を与えられ、その子孫が忠臣蔵で有名な元禄赤穂事件の被害者となってしまうという訳だ。

武家家伝_三河吉良氏

残念ながらこの資料館には吉良氏関係の資料は多くなく、吉良氏を知りたければ遥か南の海岸近くにある西尾市吉良歴史民俗資料館に行かないとないようだ。おそらく江戸時代の吉良氏が割り当てられた領地が海岸方面で元々の場所とは離れているのだろう。

といったような話を館長と延々した。その館長との話の中で出たが、そもそも、東海道新幹線は当初の予定では西尾(近郊)を通るはずだったのが、昔の西尾は裕福なものが多く土地買収交渉が上手くいかないことが予想されたので、外されてしまい、それが衰退の原因となったらしい。

国土地理院地図の西尾付近を見ると新幹線の路線が丁度西尾を避けるかの様に不自然に北にそれているので、話の通りだろう。まぁ、それが逆に未だに古い日本の建物が残ることにも繋がっている訳だ。

城跡公園は、全体に下手な観光化をしておらず、古い町並みと相まって雰囲気はよい。ここは二十世紀末の日本が泡沫経済で景気が良かった時に、その金をこの歴史公園の整備に使ったので、市の象徴に相応しい城が残った訳だ。浮かれていた時代に賢明な選択をしたことが、ここを救っている。


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