SAND STORM

朝ぼらけ

2015年5月14日

[旅行記] 千葉 壱 (下総国府台) – 平成二十七年五月

Filed under: 未分類 — Tags: — sajin @ 02:56

◇国府台(こうのだい)

京成線に乗り換えて国府台駅で下り、昔里見氏と北条氏の激戦が二度繰り広げられた国府台城へ向かう(国府台駅周辺案内図)。

少し歩いて大学が多い地帯に出ると鬱蒼とした緑が見えてきた。市川市は、広くこの一帯を水と緑の回廊として積極的に緑地として整備している。その辺りで、江戸川の堤防へ上がり川岸を歩いて行くことにする。

堤防に上がると遠くの方に見える、下に白いものがポツポツある台地突端部が城である。地図では道がないようなことになっているが、実際は車両通行禁止の歩道が川に沿って走っている。結構人が通っており、Islamの女性やら、外国から来てこの地に住んでいるのであろうという人もちらほら見かけた。

1km余り歩いて、城跡のある里見公園への案内を見て曲がるとすぐ羅漢の井戸があり、老婆と老夫が水を組んでいる。料理にでも使うのかと思って聞くと、畑に水を撒くために汲みに来たらしい。この台地は隣に江戸川が流れているにも関わらず、市川市内で一番高い場所(標高30.1m)にあり、土地は乾いているのだという。

ここは公園の名の通り、昭和四十年代に大きく改造されて下の方は噴水がある公園になっている(里見公園案内図)。Golden Week中ということもあり、家族連れなどが大勢訪れていた。茶店も南北二軒あり、便所も多い。

北の方にはcamp場があり、大勢がbarbecueをしていたり、広大なathletic場に改造されて橋が架かったりしている。

そのように公園化に伴う改変が進んでおり、元の城がどんな形状だったのか想像しづらい。一応、石垣に囲まれて残っている部分は土塁であるとからしい。

公園には、二度の戦の両方を敗戦した里見側の慰霊碑や伝承がある夜泣き石があるのだが、一切案内看板も位置説明も無く、見逃してぐるぐる周囲まで廻った後にようやく見つけた。

奥の方まで行くと明戸古墳があって、発掘された石棺が頂上部に展示されていた。説明板があり、高低図や江戸時代の絵などが描かれている。

ひと通り見て考えてみたが、いくら公園化で改造されているとはいへ、(camp場を除いて)地形が大きく改変されているとも思えず、どうもここが本格的な城跡だったとは考えづらい。肝心の曲輪(高い場所を削平した平地部分)が狭すぎるのだ。

国府台城の謎を追う | 余湖くんのお城のページ

上の考察でも太田道灌、小弓公方、里見氏すべて陣城としているが私もそう思う。

ここでは二度里見対北条の闘いが繰り広げられ、一度目は天文七年(1538)、 関東公方という関東を鎮める為に残した足利将軍家の分家が半ば独立して言うことを聞かなくなり、四六時中、京の将軍家と対立していた。つまり関東で一番の権威ある権力となった関東公方の座を狙って兄弟で後継を争い、負けた方が里見氏らの後援を得て小弓公方と称して合戦を始めたら、まともに合戦する前に血の気の多い公方が前線に出て射殺されて終了というもので、この際は大きな被害はなかった。下って、永禄六-七年(1563-1564)、戦国時代もたけなわの頃、里見側が越後の上杉謙信と結んで北条氏と鍔迫り合いをしていた第二次における負け方は酷いもので、多くの将兵がなくなった上、本拠地まで攻略されて安房に逼塞し、以後関東南部は北条氏の支配する所となってしまう。これは北条氏側の内戦作戦が的を得ていたからである。

「国府台城~3回で2回?の国府台合戦を『全勝』したもの」| 城をやる

とは言え、こういった敗北の悲劇が様々な物語を生み、結果的に『南総里見八犬伝』のような傑作まで誕生する訳だ。


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