SAND STORM

朝ぼらけ

2015年5月14日

[旅行記] 千葉 弐 (矢切) – 平成二十七年五月

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壱 (下総国府台)のつづき

◇總寧寺

これも碑を探しまわっている時に、売店のおばちゃんに聞くと寺の中にあるというので、東に隣接する總寧寺の境内に入り、墓地なども探しまわったが、結局ここにはなかった。まぁ、元々ここら一帯は總寧寺の寺領だった訳で(戦後の農地解放という共産主義的な”革新”政策で没収)、大きい意味では間違っていない。

改めて説明板をよく見ると、口伝に拠るのか寺の由緒は随分数奇なものだ。元は近江で創建されたのが、北条氏により下総関宿に移され、そこも洪水で度々被害を被ったので江戸時代にこちらに移り、江戸幕府に保護されて全国曹洞宗の支配権を与えられ十万石の格式を誇ったとある(また里見公園は公園化される前は陸軍用地として使われていた)。

曹洞宗の広がりと螢山派の発展 | 畝源三郎のホームページ

曹洞宗というのは本来、道元がかなり原始仏教を意識した宗派を創設した後、道元路線を守ろうとする保守派(永平寺)と大乗仏教寄りの民衆教化を唱えて別れた(大乗寺->)總持寺の二つが二大勢力かつ大本山で、それは今も変わっていない。

曹洞宗では永平寺と総持寺がそれぞれ本山と位置付けられていたが(両本山制)、明暦三年(一六五七)に起った国府台総寧寺松頓一件は曹洞宗における両本山制の矛盾を露呈するものとなった。

松頓は通幻寂霊を開山とする通幻派(了庵派)寺院総寧寺の住持英峻が永平寺住持職を継職するに当たり、英峻の法流を受け継ぐべく幕府より総寧寺後住に任命されたが、松頓は「永平寺は他山にて候之間、英峻より法流伝授仕間敷」として英峻からの嗣法を拒み、これに不服従の態度をとった。これに対し幕府は、元和元年に家康の名において発せられた寺院法度第五条の「日本曹洞下之末派、如先規可守当寺之家訓事」を根拠に、永平寺を「他山」とする松頓を非とし、五、六代以前に関東の寺々から永平寺に入寺した僧が永平寺の法流を嗣いだ先例は歴然であると松頓を説諭した。これに対し松頓は、先の五、六代は「悪例」であり先例とすべきでないとし、総持寺末の総寧寺から永平寺に入寺するという法流の混乱を正す意味からも幕議を受け容れなかった。
『福井県史』通史編3 近世一 第五章 宗教と文化 第一節 越前・若狭の寺社 二 本末制度と触頭制 総寧寺松頓一件

江戸時代、總持寺系であったこの總寧寺の住持であった英峻が永平寺の住持職(寺を統べる最高位)を継職した。入れ替わりに空いたこの寺の住持に入ることになった(總持寺系の)松頓は、その英峻の法流を継ぐように命じられたが、英峻は永平寺などという宗教的に過った寺の住持になっているのだから(異端であり)、その様な者の宗教性を受け継ぐことなどできない、として幕命に逆らい津藩預かりとなった事件が起きている。

こういった事を見ると、北条氏が近江から移しただとか、曹洞宗を統べていただとかは眉唾としても、本山に及ぶような位置ではなかったとはいえ、両派の争いの中で何がしかの役割は果たしていたらしい。

明治38年5月、本山貫首となられた石川素童禅師は焼失した伽藍の復興のみでなく、本山存立の意義と宗門の現代的使命の自覚にもとづいて、大決断をもって明治40年3月に官許を得、明治44年(1911)に寺基を現在の地に移されたのであります。

曹洞宗大本山總持寺【概要】

ちなみに元々両派はともに加賀にあったのだが、大衆教化志向のある總持寺は明治三十一年の大火による寺院延焼を契機に横浜鶴見区に本拠を移した。永平寺側は保守性故に一度は凋落しており、仏教において原理主義的な修行派と大衆教化で広く教団としての後援を得る世俗派の分裂や対立は避けられないことなのだろう。

◇天満宮と辻切りの行事

公園すぐ北にある天満宮、この地域のみに残る辻切りの行事はとても興味深いものだ。

この地域では古くから獅子舞、辻切りといった民俗行事が行われてきました。「辻切り」とは人畜に危害を加える怨霊や悪疫が部落に侵入するのを防ぐため、部落の出入り口に当たる四隅の辻を霊力によって遮断してしまうことから起こった名称です。

遮断の方法には、注連縄をつくって道に張るとか、大蛇を作ってその呪力によって侵入してくる悪霊を追い払うというような方法が取られていますが、千葉県では、南部の地方では注連縄を張る部落が多く、北部の地方では大蛇を作る部落が多かったようです。

市川市でも、昔は国府台、国分にかけた地域で盛んに行われた行事でしたが、太平洋戦争後は世相の移り変わりとともに次第に廃れ、今では昔の姿を伝えているのは、この国府台の辻切りだけになってしまいました。

東京医科歯科大学教養部の周辺案内

『ナポレオン ―獅子の時代―』などで名を知られるようになった長谷川哲也の初期作『神幻暗夜行』にこの辻切りを扱った印象的な話がある。辻切りによって作られた閉塞空間で起こる恐怖と惨劇は、zombieなどくだらないものに頼らなくても素晴らしい和風horrorが描けることを証明していた。『神幻暗夜行』は、諸星大二郎など日本の民俗伝承・伝奇が好きなら間違いなくハマる傑作なので興味があったら入手してみてほしい。

◇矢切へ

城域を離れ、どちらに向かうかと思ったが距離が変わらないので北の矢切駅から帰ることにした。途中、広大な空き地があって穂の付いた草が一面に生えて、種を飛ばしている

周囲は一面の畑だが、一応観光整備されており、色々案内などがある。首都圏を放逐されたhomelessはこういった周辺に移っている訳だ。

有名な矢切りの渡しでは、船での渡しも運営しているのだが、時間が夕方五時を過ぎておりすでにやっていない。

自ら活動して他を働かしむるは水なり
常に己の進路を求めて止まざるは水なり
障害に逢いて激しくその勢いを百倍しうるは水なり
自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せて容るゝの量あるは水なり
洋々として大洋を充し、発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霞と化し凝っては玲瓏たる鏡となり而も其の性を失はざるは水なり

堤防上の道に上がると、途中に太田道灌作とされる水五則の碑が立っていた。老子から発展した考えだが、元々は大野洪聲の『繪入教訓』水五則らしい。徳川家康などと比べ、太田道灌がほとんど言及されることのない現代では仮託した意図が読みづらい。でも、今の東京に繋がる江戸発展の基礎を築いたのは道灌なのだから、名前に触れる機会があるだけでもいいことだろう。偉業を成してiconとなった人物は自動的に立派になっていくという所か。

ここまで来ると矢切駅も遠い(しかも私鉄で高い)ので、川べりを歩いてJR常磐線の金町駅まで歩くことにしたら、思ったより長く歩くことになったので、足が痛くなった。南千住駅に帰り、コツ通りを駅前から脇に入るとある中華料理 一力屋で空腹を癒やす。ここは元々のこの土地らしい外見だが、近くの千成食堂と並んで身になる飯を出してくれる。


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