SAND STORM

朝ぼらけ

2015年6月9日

[旅行記] 浅草(石浜城) – 平成二十五年十二月

Filed under: 未分類 — Tags: — sajin @ 05:33

◇隅田川岸近辺

隅田川の河畔が北の千住大橋まで公園化されているので、毎日運動に使っていたが、歩いていけそうな距離なので、Skytreeなども含めて東岸を見て回ることにした。隅田川一帯はほとんどどこからでもSkytreeが見えるので、歩きの際、迷いが生じにくい。

◇すみだ郷土文化資料館

地味な外見と裏腹に、東京大空襲の体験者が描いた絵と生の体験談を文と音声で集めてdatabase化し、すべて閲覧できるようにしてあるここが一番強烈だった。本物の地獄ってのはまさにこういうことで、この手の戦争被害にありがちな悲劇を利用した政治誘導が排されているので純粋に受け取ることができる。

一階は古代~中世は海がもっとはるか内陸の方まできていたことも図示してあって時代による変化が大きくわかる。そこの展示にあったが、そもそも戦前の東京の区割りはまったく異なったもので、空襲で焦土と化したために戦後に今のような区割りになったことを知る(大東京35区物語-15区から23区へ-東京23区の歴史)。

最上階は今はもう失われつつあるのであろう、伝統工芸の名品とそれを作る職人を紹介していた。上手くやれば現代に合う和物の小道具などもかなりあるように見えたが・・・

◇待乳山聖天

西岸に戻ると、待乳山聖天(説明)では、大根まつりの準備が済んでいた。ここは神社にしか見えないが、浅草寺の支院で仏教寺院だという。

確かによく見ると石仏やら仏教関連のものが多い。

◇石浜城

その待乳山聖天だが、戦国時代まであった石浜城の有力候補地の一つだという。隅田の渡しや橋場の渡しといった交通の要地を抑える石浜城は源頼朝や義経の頃から有り、どこが城跡であったかは南千住に近い石浜神社(公式)、今戸神社など諸説あるそうだ。

1450年以前の江戸 | 古代で遊ぼより

上の図を見るとわかるが、江戸時代に開発が進むまでの関東は、現在では考えられないほど奥まで入り込んだ湾に大量の河川と大規模な沼沢が入り交じる水郷地帯だった。城のあったとされる場所は、浅草から石浜神社辺りまでは細長く東北に突き出た砂嘴(さし)で、両側が水だったから別にどこに構えようと防御自体はさして変わりない。それに大河川の洪水にも度々見舞われているから、城として使われた場所も特定の一箇所だけではないのだろう。

同じ領域にある今戸神社の説明にもあるが、戦国時代に石浜城を支配したのは、お家騒動で本宗を乗っ取られて逃げてきた千葉氏だった。歴史にifは禁物だが、下手をするとこの一帯まで千葉になっていた可能性が・・・ないか。

第4位 石浜神社の白狐たちの霊力   宮本神酒男


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