◇鶴舞
busの路線の関係で一旦牛久駅まで戻ってから、鶴舞へ乗り換える。
ちなみに、長南から牛久への便は一日五本しかない。鶴舞行きの便も予定より十分早く出たりして、危うく乗りそこねる所だった。transit bus(路線バス)は、その複雑な停留関係も含めてよく知らないものがいきなり利用しようとすると過ちを犯す可能性が高いので、必ずbusの運転手などと話して行き先その他を確かめた方がいい。
近くの停留所で下りて、鶴舞小学校にある鶴舞城跡を訪ねる。ここは明治維新の後に築城を始めた城で、明治初期の地方領主はごく短期間(明治四年の廃藩置県まで)しか存在し得なかったために造りかけで取りやめられた。
特筆すべきは堀で、道路を渡って少し南に入って行くと大きな池としか形容しようのない堀が現れる。その堀の真中を渡って、妙な集落を抜けていくと鶴舞神社が見え、その隣に公民館がある。
厠を借りたのだが、中に入ると戦前の校舎のようなつくりだ。事務員が常駐していて、聞くと旧藩校だという。鶴舞城をつくった藩主井上氏の遺徳が今も残っているのはうれしいことだ。
木造の体育館が一体化してあるのだが、自分が通っていた頃の小学校にはこれと同じ式のものが残っていた。今ではまず見かけることはないが、ここは状態が良いまま保存されていて、すでに史跡であると思う(一部庇が破損していたのでそこは直してもらいたいものだ)。
◇池和田城
藩校跡をしばらく下ると、混凝土の壁を穿って地蔵が何体も祀られており、そのすぐ下の道が別れる所に池和田城の入り口がある(標柱)。
埋もれた古井戸を横目に登ると天神社があるのだが、ここは凄まじい蚊の量だ。二十匹ほど潰したが、それでもまったく減る気配はなくどんどん集ってくるので、城跡をまともにうろつくこともできずに早めに退散した。
市原市埋蔵文化財調査センター 遺跡ファイル – 詳しい城跡図
◇光明寺
下って池和田城の山容を後ろに見つつ鶴舞駅に向かって行くと、途中光明寺という看板と立派な本堂が遠くに見えて気になる。
多少の寄り道程度なので行ってみると、本堂も素晴らしいが、新造された門の両脇に並ぶ仁王像の迫力が凄い。総本山であるとか何かの中核的寺院というならわかるが、地元の寄進だけでここまでしているのは現代では珍しい。
光明寺は山号を音信山(漢訓みでオンシンザン)というが、元々は西の高滝dam(ダム)の近くにある音信山(おとずれやま)にあったらしく、日本最大級の木造地蔵菩薩坐像が音信山に近いdamの北隣にある(その南の山が翌日訪れる真里谷城のある山だが方向が反対になるので行かなかった)。
単なる寺というには風格のある佇まいだが、確かに中世は城館であったのではないかというつくりだ。
◇鶴舞駅へ
田んぼの中に沈むように列車が走る線路を渡り鶴舞駅へ向かう。この踏切を小湊鉄道の列車が通る絵を想像するだけでいかにも似合いそうだ。
関東の駅百選に選ばれた駅舎は時間が半世紀前で止まっている。
思ったより色々うろつくことになったが、今日の旅程を終えて牛久の大津屋へ帰った。牛久は駅前にも数軒飯屋があるし、駅の向こうの方に歩いていくと幹線道路が通っているので、それ沿いにも食べる所はある。ただし、そちらは典型的な車道沿いの店で雰囲気は良くない。
明日は今回の道中で最大の難関と考えていた真里谷城だ。大津屋の女将が飯はあそこがいい、風呂に入りなさい、と世話をやくので、さして考えることもなく済ませて速やかに寝た。