SAND STORM

朝ぼらけ

2015年10月15日

[旅行記] 国会前 – 平成二十七年九月

Filed under: 未分類 — Tags: — sajin @ 02:48

第三次安保闘争とも呼ばれる“安保法制”反対運動を見物してきた。

◇山谷界隈

南千住駅に着くと土砂降りの雨で、山谷の宿街の最南端に泊まったため400mほど濡れながら移動する。予約していた宿の部屋に入ると出窓から雨漏りしていた。

宿からに出ると、「STOP戦争法案」、「憲法9条を守れ!」といったposterが貼ってある。この界隈は人為的に山谷の名が消されたため、今は清川といって路上は労務者の溜まり場である。

江戸通り雑感:通りの顔(南千住~清川)

下層労働者が多いということは本来なら社会主義・共産主義の猖獗地帯となる筈で実際基地はあるのだが、既に引退して生活保護で食べている人が大半のためか勢いはなく、左翼の街宣車などは私が住んでいる地方の方が五月蝿い。あまりに連日五月蝿いので、そこまでがなり立てるならついでに見てやるかという気になっていた。

近くの蕎麦屋で食事しながらそば焼酎を飲んで身体を温めていると、TVでは安保法制の国会審議と乱闘を映し出し、雨中でも国会前で示威行動に励む反対集団を特集している。

「いまが正念場」国会前、抗議活動も再開 安保法案:朝日新聞デジタル

とは言えこの日は雨が酷く、土地勘がない国会前まででかけてどうこうする気はないので休んで過ごした。

◇国会前へ

翌日、一応雨は上がったようだし、今日中に安保法制が可決してしまいそうなので出立し、丸ノ内線から国会議事堂前駅の階段を上がって地上に出ると、早速列をなした機動隊の車輛が出迎える。

角々に立つ警察官に監視されながら進んでいくと、国会議事堂への入場門は一際厳重な警戒だ。また、そこかしこに日の丸と一緒に社会主義っぽい赤地に黄色い星が描かれた旗(金星紅旗)が掲げてあるので何かと思ったら、これは国家社会主義のVietnamから要人が来たのを迎えるためでdemoとは関係無かった。

さらに進むと、おっ、やってるやってるといった姿が見えてくる。

近づくとまさにdemonstratoin(示威行動)で
「強行採決許すな!」
「わたしたちは二度と赤紙を配らない」
といった刺激的な幕を掲げた集団が狭い道に並んでいる。

僧侶達は呪殺祈祷僧団四十七士「JKS47」なのか?

労働組合を中心に動員はかかっているのだろうが、それぞれに集まっているという感じで、様々な集団が百鬼夜行の様に幟を掲げている。

Rapの歌詞を掲げるのもいい主張法だ。こういう基盤があるから、SEALDsなんかの若者Rapも成り立っている。左翼は土俗的な参加の伝統があることもあって、太鼓などを用いてrhythmを感じさせる祭りじみた盛り上げが上手く、掛け声などは全然違う。

見物だけのつもりだったが、場の熱気と音の刺激を受ける内に、自分も”戦争させない/9条壊すな!”と書いた紙板を貰い、一時左翼になって闊歩する。

集団がいる所を通りすぎて角の方まで行くと、革命的共産主義者同盟(中核派)が募金と機関紙 週刊『前進』の販売を行っていたので、オルグされながら入手した。

demoは憲政記念館の外周りでやっているのだが、中は公園で入り放題なので、休憩所で休んだり、それ越しに参加したりできる。公園内に入ると、日の丸を掲げたカブが走り回っていて何かと思ったら「憲法九条は日本人の魂だ」と書いた愛国九条教徒だった。

公園の中から一番人だかりが多い演説場所を見ていると、石田純一が来て喋り出す。石田は大人気でcameraで撮りまくる人が多数。機材の向こうに見える足がそれ。

「志ある議員は造反せよ!」

造反はいなかったが山本太郎は頑張っていたな。でも、抗議活動家で満ち満ちた休憩所での彼の評価は微妙。しばき隊やSEALDsなどの印象からワルっぽい方がいいのかと思って上下tracksuitsに指輪などを嵌めていったのだが、休憩所で改めて観察してみると、その様な格好は浮いていた。基本的に真面目な下層労働者が集まるものであり、地味で労働者っぽい、しかしある程度「インテリ」風、「思想を持っている」臭を漂わせるのが正しい。青年は「今自分は正しい活動に参加しているんだ」という思いで、目をキラキラとさせ、先輩活動家に交わっていくこと。

demoの最中に小学生が多く国会見学に来ていたが、もうちょっと日を選べないのだろうか。帰り際、駅の入り口では最初に見たposterそのままの様な面の良い青年が革マル派のアジビラを配っていたので貰って帰る。

晩から用事があるので、南千住に帰り仙成食堂で焼き魚定食を食べながら考える。ざっと現場で体験した限りでは、九条なり何なりの単純だが感情的に盛り上がりやすいことの信者が多いのかなといった印象だった。TVに映されるような目立つ人間を除けば、土俗的な農民といった方が感じが強い。媒体で名前を売っているような左翼人士は一種キワモノ的存在であり、大衆次元の左翼活動はまた別のものがある。

豆知識

#日本の戦後左翼運動は

・日本共産党が暴力革命を煽ってきたのに、破防法成立などで手の平を返したこと(『警備警察50年』 p12
・U.S.S.R.(ソヴィエト連邦)が大衆蜂起であるHungary(ハンガリー)動乱を武力鎮圧し、帝国主義的性質を顕にしたこと
・絶対的指導者であったStalin(スターリン)が死に、その批判が始まったこと

以上により、Cominform [コミンフォルム](Comintern [コミンテルン] の後身。CominternはCommunist International [インター] の略)≒U.S.S.R.影響下の日本共産党の一党支配を否定して派生した新左翼運動が暴力革命を肯定して派手に展開したため分派が非常に多い。

その嚆矢となったのが革命的共産主義者同盟(革共同)で、それが分裂してできたのが『前進』を機関紙とする中核派(革命的共産主義者同盟全国委員会)と革マル派(日本革命的共産主義者同盟 革命的マルクス主義派)。

他の有力組織、日本社会主義青年同盟(社青同)は社会党系の青年部隊で伝統的に社会党は管理が緩いので分派を繰り返している(社青同解放派=革労協が有名)。日本民主青年同盟(民青)は共産党の青年部隊で、共産党らしく粛清などを行い単一組織を保つ。

もう一つ有名なのは同時期に学生主体で誕生した共産主義者同盟(ブント)で、縛りの緩い若者向き運動であったために大衆運動として急速に拡大、60年安保闘争では主役となり当時の文化人の多くがこれに関わるほどだったが、組織性の緩さからその終焉とともに解体した。

それが残党により再結成されて、70年安保(helmetとゲバ棒、東大安田講堂などはこの時)では 全共闘(全学共闘会議)としてnon-sect radical(ノンセクトラヂカル)とsectである中核派・革マル派・解放派・民青などと共に主要な役割を果たすが、ブントから派生した赤軍派・連合赤軍がよど号ハイジャック事件やあさま山荘事件を引き起こし、それに続く中核派・革マル派・革労協(解放派)の内ゲバ合戦で大衆からの支持を全く失った。

こうして悪い印象がつきまとうためにほとんど表立っては語られることはないが、戦後の有名人の多くが、60年安保や70年安保の全共闘に関わっていた。

学生運動に参加した著名人 @ ja.Wikipedia

元東京都知事の猪瀬直樹は信州大学全学連議長、塩崎恭久は高校活動家、糸井重里は中核派、内田樹は過激派学生、三遊亭楽太郎はブント、テリー伊藤は全共闘闘争で目に障害、高須基仁は中央大学社学同委員長、北野武や坂本龍一も闘争参加経験があるなど芸能人の類にも多い。他にLOFTの創始者平野悠など。

[Link]

コミンテルン(第3インターナショナル) – 戦前の共産主義・社会主義運動が世界史的観点から簡潔に書かれている。

全共闘はなぜ消滅したのか?: 依存症の独り言

記憶の社会史~全共闘運動とは何だったのか~

神聖なる詭弁と偽史・武装カルト(ジャパン・ミックス編『歴史を変えた偽書』) – 革命的共産主義者同盟(革共同)からは中核派・革マル派以外に第四インターを標榜する太田龍らが分派した。この太田こそが最も過激な思想家。


関連記事

No Comments »

No comments yet.

RSS feed for comments on this post. TrackBack URL

Leave a comment


sand-storm.net