SAND STORM

朝ぼらけ

2017年2月23日

日誌 – 平成二十九年二月

Filed under: 未分類 — Tags: — sajin @ 15:46

◇旅

東京に行ったついでに電通のAd Museumにいってきた。

内部は撮影できないが、江戸時代の看板から、戦前の広告や戦後の白黒時代のTV CMなどが展示してあってかなり面白い。

例の手帳から消された鬼十則。
年表を読んだが、鬼十則を発し、電通をここまでにした吉田秀雄は大活躍して国際的にも表彰されたが早死したそうだ。

臼井から佐倉を自転車でうろついた。

面白い写真がいっぱいあるのだが、偏った生活を送っているせいで、旅日記の制作が滞っている。残念ながら来月は遠出できそうにない、ということは即ち旅による生活潰乱がないので、相場行為がある程度落ち着いてきたら、旅日記をつくろうと思っている。

◇運動でいきなり走るなんて

どこぞで「運動するなら走るといいんじゃない」と軽々しくおっしゃっていたが、屋内で過ごすことが多い現代人はいきなり走るなどということはやるべきではない。
ロクに動かず血もめぐらしていない、身体全体が凝りまくった状態から動くには、まず軽く歩いて、その中で柔軟の練りを行うのが先だ。
この練りは、なめらかな構造物(電柱や橋の欄干、公園の用具など)に身体を当てて、身体に反応させ、反発の負荷と刺激で身体の中から動かしていく。
自分は、橋の欄干ぐらいの高さのものに腹部を当てて回り内臓や胴体部分を刺激したり、電柱に背を当てて、背中から神経や普段触れない腸を刺激するのが好きだ。
激しい運動というのは、頭から意志の命令を発して身体を強制的に動かす訳だが、この反応・反発の練りは、むしろそういう意志の命令とは逆に、無意識の動きを活発化させる。
そうやって歩いた後に練っていると、凝りがほぐれ、激しく動いておらずとも神経と内臓から温まって、調子に問題がなければ自然と動く状態になってくる。
その状態で再度歩いていれば、跳んだり走りたくなるので、そこで初めて走るような激しい運動を行うのだ。
特に真冬などは、いきなり激しい運動を外でしようとしても、身体の調子が一足飛びにそこに向う訳もない。防寒をちゃんとして、身体を練る内に自然と身体の動きを底から上げていかないと運動なんてできるものじゃない。

部屋で動いていない状態<=>散歩と練り<=>激しい運動

運動選手ならともかく、一般人にとってはこの動いていない状態と練りの往復の方が重要で、激しい運動はむしろ二次的なものでしかない。
若い内は身体の各部に問題がなく、神経のつなぎも壊れていないのでいきなり激しい運動も良いが、中年に入ったら練りこそが重要だ。

◇過ちと眠り

自分の中の何がこれほどの過ちを生み出しているのか。
苦痛と失敗と無数の経験。
それが崩れ落ちた眠りの中でしか明らかにならない。

◇生

真理に従い、超常に奉仕せよ

下物には超常は理解も思いもつかぬ。下物は目の前に実現して初めて感じることができるだけだ。
下物は実現した環境がすべてあり、それに認知も肉体も思考も流されるのが定めなのだ。
石くれが自らの意志で環境を超えることなどない。

飛翔しているものだけが、超常を見、往くことができる。
だから、真理を調べ、それに従い、超常への道を歩め。
死が生を別つその時まで、ただ歩めばよい。

◇恵方巻き

恵方巻きに包丁入れるなとか訳がわからん迷信だ。
同じものを大量に食べれば栄養が偏る上にすぐ飽きて不味くなるし、あんな長いものを一度に食べれば腹に悪いだけ。
自分は最速で包丁入れて二~三分割し、今食べたい組み合わせにして食べているよ。

大体「恵方巻き」なんて代物は芸者辺りがバカなノリの余興でやっていたものを、商売人が迷信つけて広めた一気飲みと変わらない流行でしかない。
Christianでも何でもない連中がValentine’s dayやXmasを出鱈目な祭りにしているのと同じことだ。余興でやる分には、Christianが聖人の日にお上品に過ごすことを知っている世界の大半の人間からすれば蔑まれる(お盆に性交を励行しているようなもの)だとかあっても、勝手にしろという所だが、恵方巻きみたいなものを謂われるがままに「決め事どおり」に食べている人は早死にするのが関の山と思う。


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