SAND STORM

朝ぼらけ

2009年10月7日

フィヒテ 『ドイツ国民につぐ』より

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Napoleonが欧州を占拠していた一八〇七年から翌年にかけて、FichteはBerlinのAcademyでまだバラバラの封建国家の群れに過ぎなかった諸邦に住む”ドイツ国民”に向けて、祖国愛に燃える一連の講演を行った。『ドイツ国民につぐ』はその内容を出版物としてまとめたものである。

利己心の塊となった現在とその行き着く先を浮き彫りにする一方、巌(いわお)のような確かさで民族の核を明らかにし、歴史の中で今なすべき教育の有り様を説得力に満ちた平易な論理で渾々と説いていく。元が講演なので、全編に張り詰めた緊張感にも関わらずその言う所を汲み取るのは難しくない。

人間の本質に基づいて、分厚く聞くものの魂に問いかけるFichteの弁は雄々しさ、父性というものがなにかを、それが欠かせない重要なものであることを思い起こさせてくれる。


J.G.Fichte “Reden an die deutsche Nation” 訳:石原達二 玉川大学出版部

◇利己心の進展と共同体の破滅

P.7

我々の時代は全世界史の第三期にあたり、この時期には、たんなる官能的利己心がそのすべての生命的な活動、運動の原動力になっているということ、そして現代が自らを完全に了解し把握するのも、こうした原動力の唯一の可能性の中においてであるということ、さらに、現代は自己の本質をこのように明察することによって、この生きた本質の中に深く基礎づけられ、確かなものにされるということ。

世界史というものが存在するようになって以来、どの時代にもまして、我々の時代は大きく変わっていっています。
そこでは、利己心がその完全な発達を遂げる過程で、さらにその自己と自律性を失うことによって自分自身を亡ぼしてしまったのです。
そして利己心というものは、自分では自己自身を措定する以外に他の目的をもつことはありませんから、外からの力によって他の無縁の目的がそれに押しつけられることになりました。

自立性を失った者は、時の流れに関与したり、その流れの内容を自由に規定したりする能力も同時に失ってしまいます。
このような状態に陥ったままでいると、その者はその時代もろとも、自己の運命を支配する外からの力によって清算されてしまうことになりましょう。
こうなったからには、その者はもはや自己自身の時代を持てず、他の民族や国家の事件や時期に従って自分の歳を数えるということになります。
以前の全世界がその自発的関与の彼方に去ってしまい、もう服従の名誉しか残されていないというこの状態から立ち上がることができるとすれば、
それはひとつの新しい世界が開け、その創生と共に新しい固有の時期が始まり、その育成とともに自らも充実するという条件においてしかない。
しかし一度、外からの力に従属してしまっている以上、この新世界がその外力にとらえらえず、またその嫉妬心を刺激するようなことがなく、それ以上に、そういう新世界の形成を妨害しないことがむしろその外力の利益になるというような性質のものでなければなりますまい。
以前の自己と、以前の時代と世界とを失ってしまった民族にとって、新しい自己と新しい時代の創造手段としてこのような性質の世界がありうるとするなら、当然このような世界を提示しうる時代というものをいろいろな側面から説明することが必要でありましょう。

奇妙なぐらい今の日本と重なる状景だ。

戦後日本は他者のその時の都合で、人造的に自立を奪われて作られた他律の国である。異様な利己心の跋扈もそもそも自立が奪われた状態を続けてきた結果。

誰でも他律できる国として設定されているので、米国だけでなく、朝鮮人、China、Russiaなど様々な外部勢力や内部の破壊勢力(communistやオウムなど別の権力体を形成しようとする勢力)にいいようにやられてしまう。

◇利己心が政府と国民をとりこにした結果なにが起きるか

p13

利己心というものは、重要でない例を除けば、それが被支配者の全体を捉えた後、そこからまた支配者層をもとりこにして、その唯一の生命衝動となるときに最高度の発展を遂げるのです。このような政府には、まず対外的には、自らの安全を外国の安全に結びつけているきずなをすべてなおざりにしてしまうということが生じてきます。もっぱら己の怠惰な平安が妨げられないようにするためだけに、自らがその一員である全体を放棄し、自分の国境が侵されない限り平和であると思う利己心の悲しむべき錯覚が生じるのです。次に対内的には、国家規律の例の女性的指導というものが生じてきます。これは外国語では、人間性、自由性、大衆性、などとよばれていますが、より正しくはドイツ語で柔弱とか威厳なき挙動とかよぶべきものです。

利己心が支配者層をとりこにしたとき、と私は言いました。国民がまったく堕落しても、すなわち利己心になりきってしまっても---というのも利己心はすべての堕落の根源なのですから---それにもかかわらず、政府がそのように堕落しさえしなければ、その国民は存続できるばかりか、外面的には輝かしい行為さえ成し遂げることができるのです。

しかしもし国民も政府も一緒になって堕落してしまえば、国家はその上に加えられる最初の厳しい一撃で滅亡してしまいましょう。

そもそも明治政府が、弱肉強食、負けたら奴隷化の近代化された世界を生き延びるために江戸時代までの日本を劣ったものとした戦前が基底にあり、その上に敗戦によってさらにもっともタチの悪い自己否定を塗り重ねられた戦後日本がある。

総力戦の中で、究極まで利己心の廃棄と全体への奉仕を強要されたが故に、そして究極まで利己心を廃棄して奉仕したにも関わらずその成果が-(マイナス)のものとして現れた為に、「利己心を捨てて共同体に奉仕する」ことを否定し、攻撃する勢力が言論・政治・宗教あらゆる所で優勢となった。

そこでは「利己心を捨てて共同体に奉仕する」ことが、「国家・民族のどちらかが一人残らず全滅もしくは奴隷化するまで行われる総力戦への奉仕」と同一視されている。戦争をすべて第二次大戦のような全滅するまでの総力戦と同一視させているのも同様。そのために、「利己心を捨てて共同体に奉仕する」ことの通常の形態である、伝統文化への奉仕や維持、小さな共同体への参与、奉仕といったものが軽侮されまるでゴミであるかの様に打ち捨てられてきた。

戦後はそのような民衆levelでの自発的な否定に加え、占領者であるGHQが去勢したEconomic Animalを飼う場所として戦後日本を構築し、自立的には何もできない状態においた。それは建国の理念というもっとも根幹となる基盤が過去の自立を否定した逃避的、閉鎖的な空想におかれている所からも明らかだ。

米国がつくった冷戦構造という外殻の中で、外的危険から隔離された戦後日本は、自立者としてのすべてを忘れ、ひたすらEconomic Animalとしての活動に邁進する。米国が同じ西側としての分け前を与え、市場開放など大筋を整えていてくれたために”頑張るだけで”経済が発展し続けすべての矛盾は誤魔化されてきた。

◇父子の教育と愛

P152

徹底した思弁も、すべての観察も、この最も根源的で最も純粋な形態が尊敬への衝動であり、そしてこの衝動に対して唯一可能な尊敬の対象としての道徳的なもの、正義、善、真実さ、自制力がはじめて認識されるようになる、という点で一致しています。子供の場合、この衝動は自分が最高の尊敬を捧げるものから同様に尊敬されようという衝動としてまず現れます。この衝動は通例、親切にいつも側にいてくれる母親よりも、もっと厳しく、しばしば不在で、直接には親切にしてくれる人には見えない父親の方に遙かに決定的に向けられるのであって、このことは、愛というものが決して利己心から発するものではないという確かな証明になります。子供は父親に認められることを欲し、彼の賛同を得ようとします。父親が自分に満足してくれる限りでのみ、自分自身に満足するのです。これが子供の父親への自然な愛情です。それは決して、自分の感覚的幸福の保護者に対するものとしてではなくて、自分自身の価値や無価値が反映する鏡に対するものとしてなのです。父親はこの愛に困難な服従やどんな克己さえも容易に結びつけることができます。父親の心からの賛同という報酬のために、子供は喜んで従います。一方、子供が父親に望む愛とは次のようなものです。すなわち、よい子になるという自分の努力を彼が認めていてくれること、そして彼が賛成できるときには嬉しく、賛成できないときは心から悲しい思いをするのだということを自分に分からせてくれること、また彼が自分にいつも満足できるというより以外のことは何も望まず、彼が自分に対して要求することはすべて、自分自身をもっとよく、もっと尊敬すべきものにするためだけなのだと言うことを自分の分からせてくれるということです。このようなことを見ることによってまた、子供の愛は生き続け、強化され子供の今後のすべての努力に新しい力が与えられるのです。これに反して、父親が顧みなかったり、絶えず不当に誤解することによってこの愛は殺されてしまいます。ことに子供の取り扱いに利己心を見せたりすると、たとえば子供の不注意によって生じた損失を重大な犯罪のように取り扱ったりすると、憎悪の念さえ産み出すことになります。そうなると、子供は自分がたんなる道具になったように感じ、このことが、自分は自分自身によって価値があるに違いないという、漠然としてはいても、決してないわけではない子供の自尊心を害するのです。

これほど父が子を教えることの良さと、それを為さなかったために子供に起こる悪影響を、真っ直ぐしっかりと示した文があるだろうか。父性・父親の教えというものが、まったく蔑まれ、貶められ、踏みにじられ、消え去ってしまっているかの観がある末期の戦後日本にとってフィヒテの言は刺すように厳しい。

このことを一例をあげて説明しましょう。子供の懲戒の際に、苦痛の上に羞恥がつけ加わるのはどうしてでしょうか。この羞恥とは何でしょうか。明らかにそれは、両親や教育者の不満を知ったとき、子供が自分に加えずにはいられない自己蔑視の感情です。それゆえ処罰がなんの羞恥も伴わないような場合、教育はもうおしまいになってしまっているのであって、処罰は暴力行為として現象し、生徒はそれを誇り高い心で無視し、軽蔑するのです。

そういうわけで、これが人間の心を統一するように結びつける紐帯であり、これを発達させることが人間教育の主な要素です---決して感覚的愛ではなく、相互尊敬の衝動です。

この衝動は二重の仕方で形づくられます。すなわち、子供においては、自分の周りの成人に対する絶対的尊敬から出発して、彼らに尊敬されようという衝動になったり、彼らの実際の尊敬を尺度として、どの程度まで自分が自らを尊敬してよいのかを推定する衝動になったりします。このように自己を計るのに自分の外にある他の尺度を信頼するということは、また子供らしさ、未成熟に特有の様相であって、後進の青少年を完成した人間へと教え導くことの可能性は、まったくこのことによるからにほかなりません。成人は自己評価の尺度を自分自身の中にもっており、他人から尊敬されることを欲するのは、その他人が自分の尊敬に値するとした限りにおいてだけです。それで成人の場合では、この衝動は他人を尊敬でき、尊敬に値するものを自分の外に作り出したいという欲求の形をとります。もし人間のなかにこのような根本衝動がないとしたら、ごく普通の善人でも、他人が思っていたより悪い人と知ると悲しみ、そういう他人を軽蔑しなければならないことに深く苦痛を覚えるという現象はどこから来るのでしょうか。けだし利己心にとっては、他人を傲慢に見下すことができるというのは、反対に気分のよいことに違いないのですから。

戦後日本から大人が死滅しつつあるのは以前の自立した社会、自立の責任を負った世代に盲目的に反発する極左学生運動から始まった流れが積み重なってきた為だ。


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