内藤朝雄の『いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体』、もしくはそれを一般向けに書き直した『いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか
』は、特に戦後の学校が生み出すいじめという問題を中核にいじめ発生の構造を学術的かつSystem的に暴き出し、戦後日本Systemの何が問題なのかを顕わにする重要な研究書だ。
この本は、個人でvideo gameをplayし続けている人もだが、特に対人対戦環境でgameをplayする、その際に表れる様々な人間の心理と行動を観察しているPlayerにぜひ読んで貰いたい本だ。
仮想のvideo gameという場では普段物理的に抑制されている人間の行動が赤裸々に表れるので観察と発見に適しており、ひいては自己自身を見るのにも役に立つ。
[基本的な用語の解説]
いじめの社会理論がパッと読んでもわからないのは内藤が数学的な用語に意味を代入し、全編でそれを通して論理を語っているからだ。また内藤は学会に提出する論文である為か、f(x)の様な函数表現をも用いており、これがさらに理解を妨げる要因となっている。
α =「 自分が何であるか」に関わらない「無条件的な肯定感覚」。母が子に与える愛情であるとか、その結果確立される暗黙の肯定感覚。「高貴な人には、おのれの自己価値と存在充足についてのまったく素朴で無反省な意識」、わかりやすく言えば風の谷のナウシカのナウシカ。この欠如がまがいものとしてのβ体験を求めβ秩序を作り出す。その特性からα-体験構造は存在するがα秩序なるものは存在しない。(P60)
β = 無条件の肯定感覚の欠如からくる、全能感の希求。それを得られる体験がβ体験(いじめなど)、それを得られる構造がβ秩序(学校・宗教・軍隊・会社他)。(P61)
β-体験構造=<欠如>から全能(の筋書きの具現)を希求する体験構造。
γ = β秩序の様な、私的な全能利益を求める行為を禁圧、抑制する公的社会秩序。人間の内的欲求に基づくものではなく、人為的な秩序としてのみ存在。(P55。γ秩序の提言は最後の章で簡単かつ実験的構想として触れられるのみ)
IPS = Inter-Intra-Personal Spiral。(P58で詳説)。図P162,163,182
秩序化した社会関係の中で外的具象が確保され、その具象とのマッチングに即して、内的関係表象構造が組織されつつ働く。と同時に、各メンバーの体験構造(表象構造あるいは心理システム)に基づくコミュニケーションの集積として、対他コミュニケーションの社会的秩序が成立していく。この全体を筆者は、次のようなループとして考える。
すなわちそれは、①人びとが社会や自己や他者を体験する枠組みおよびその操作システム(社会の中でのIntra-Personalな体験構造)と、②その枠組みにおいて体験されながら生起するコミュニケーションが連鎖・集積して自生する社会秩序(体験構造に基づくInter-Personalな社会)とが、③螺旋状に他を産出し合うループである。このループを、IPS(Inter-Intra-Personal Spiral)と呼ぶ。
内藤はIntra=内、Inter=~間(International=国際)の意味で使っている。
P64
α-体験構造(無条件の肯定感覚)の崩壊と共に認知-情動図式が漠然化してくると、何が問題でどうしたら充足できるかが把握できないまま、意味が定かにならない危機感覚(情報価を失った欠如信号)だけが昂進する。その結果、何をしていてもリアリティがずれた感覚に苦しみ、慢性的で漠然とした、イラダチ・ムカツキ・空虚感をかかえることになる。このような<欠如>は、当事者の曖昧な意識にとっては、すでに立ち現れた世界の中に一定の位置を占めて存在する何らかの<欠如>として体験されるのではなく、世界や自己が世界や自己としてリアルに体験される際に、その立ち現れの原理のところから常に既に奇怪な仕方で崩壊しつつ、「すべて」がごっそりと「ブラックホール」に呑み込まれてしまっているような、無限の底からの生の腐食と感じられる。このような認知-情動図式の漠然化の効果としての「すべて」あるいは無限の感覚は、慢性的な漠然としたイラダチ・ムカツキ・空虚感・落ち着きのなさといった仕方で体験される。これらはいじめの場の一般的な気分である。
このような無限の(生が腐食される)感覚に対してその逆を漠然と希求して、(認知-情動図式が漠然化し対象や充足の輪郭を失ったままに)充足を強引に引き起こそうとする生体の(進退窮まった猿が自分の指を噛み切るような)実験神経症的な反応が起こり、生体は認知-情動図式に対して無根拠なままに錯覚としての「全能」という希求価を創出してしまう。ここに錯覚としての、(先天的な全肯定)<欠如>からの全能希求が生ずる、
この希求体勢は、ただちに内的表象構造において一定の筋書きのかたちをとる。そしてこの無限の望みが仮にかなえられたとすればそうであろう状態の筋書きをなぞるかのような錯覚に耽るようになる、希求価としての全能は、筋書のかたちをとらなければ、錯覚としてすらリアルに体験することができずにすみやかに雲散霧消してしまう。この筋書きが全能筋書である。
P69
いじめと遊びと儀式は濃厚に関連する。
P70-71
| 全能筋書きStock | |||
| 筋書きUnitの型 | 自己表象 | 対象表象 | 随伴情動 |
| A | 無力でみじめな自己 | 迫害的で酷薄な主人 | 無力感 崩壊感 |
| 無能と全能をすり替える↓ | |||
| B (以下Bのsub group) |
完全にControlする自分 | 完全にControlされる他者 | 全能感 |
| B-a | 主人 | 奴卑 | 全能感 |
| B-b | 破壊神 | 崩れ落ちる屠物 | 全能感 |
| B-c | 遊ぶ神 | 玩具 | 全能感 |
不能で無力であるみじめな自己とそれを転換して全能の自己を表象する図式は他者にそれを向ければいじめとなる。gameの中でそのような衝動の多くが解消されている。
P94
錯覚としての集合的な「生命」感覚が生じる。このような集合的な全能具現を<祝祭>と呼ぼう。
内藤にとっていじめ、その背景構造であるβ秩序、β体験はこれみよがしに言わなくとも、絶対悪であるため、ここの記述は客観的・学術的に見えるようでいて、実は客観・学術的手段を用いた断罪となっている。つまり、事実を善悪抜きにしてただ見つめようという視点は後退している。もっとも、この書に限らず内藤の活動すべては「絶対悪としての」いじめの構造を明らかにする、「絶対悪としての」を前提とした活動。わたしは”いじめ”も人という種がある状況におかれた時に起こるただの現象と見る。そこに善も悪もない。それらは後付けの観念だ。
祝祭による生の錯覚とVideo gameによる生の錯覚は根っこに似たものがある。現実の肉体と一致した社会存在である己が十全に生きていないという欠如からくる希求だ。別に引き籠もりでなく、社会人として活動しており、社会に十分な位置を占めていると見えるものでもVideo gameを好むのは、人間に与えられたあまりに多くの機能と柔軟性が常に生の可能性を惹起させるからで、不思議なことではない。
人間は原始時代にも戦国時代にもその身体的可能性を発露させれば生きることができるのに、現実の私はそのような機能を生かす機会をほとんど与えられない。
P87から
加害少年たちは、危険を感じたときはすばやく手を引く。そのあっけなさは、被害者側にも意外に思うほどである。損失が予期される場合には、より安全な対象を新たに見つけだし、そちらにくらがえする。加害者側の行動は、全能希求に貫かれながらも、徹頭徹尾、利害計算に基づいている。
「素直」とは上位者の一挙手一投足に合わせて人格状態が即座に変化していると思われるように下位者が振る舞うこと。
独立した人格の雰囲気はいじめの場では最も迫害意識を誘発する。
ここで付け加えなければならないことは、この倫理秩序(β秩序)は利害計算に完全に従属していることである。皆が「だましあい」ながらかつ「素直」であるという状態は、矛盾も混乱もしていない。
これまで述べたような利害-全能マッチングを多用すると、一貫した人格状態を保持するのが難しくなる。人格がある程度多重化している方が、いじめ状況のβ-IPSには適応しやすい。
そもそも人間には複雑怪奇に変化し続ける自然環境、社会変遷に対応する多元的な能力(少なくともその基因)が備わっている。子が生まれれば慈しみ、栄養を得て安全な環境であれば多くの機能を落として休み、巣を襲われれば攻撃Modeになって蜂が襲いかかるように、その場の状況に対応して様々なModeを呼び出すことこそが、生物が生き残ることができる主因で、なおかつ、その場の状況に対応した自己の組み替え能力が最も高度に発達したことが他の生物を圧倒して人間が地上を征服した最大の理由だ。進化の過程で複雑多様に織り込まれた様々な機能を人生の過程の中で鍛え上げ、それぞれの状況・環境に最適化して召喚具現化することこそが”ヒト”の最たる強みであり、人そのものであるといっていい。