SAND STORM

朝ぼらけ

2012年10月30日

カタカナ英語をやめよう – 基本的なこと

Filed under: 未分類 — Tags: , , — sajin @ 00:00

その場の感覚的なノリのかわりに百害をもたらしているカタカナ英語を無意識に乱用することであなたが、そして社会全体が何を失っているのか。カタカナ英語という捏造言語での表記をやめて原語表記にしてまともな世界と繋がることで何が得られるのだろうか。


◇孔子の言葉

子路曰わく、衛の君、子を待ちて政を為さば、子将に奚をか先にせん。

子路がいった、「衛の殿さまが先生をお迎えして政治をなさることになれば、先生は何から先になさいますか。」

子曰わく、必らずや名を正さんか。

先生はいわれた、「せめては名を正すことだね。」

子路曰く、是れ有るかな、子の迂なるや。

子路はいった、「これですからね、先生のまわり遠さは。[この急場にそんなものを]どうしてまた正すのです。」

子曰わく、野なるかな、由や。君子は其の知らざる所に於いては、蓋闕如たり。名正しからざれば即ち言順わず、言順わざれば則ち事成らず、事成らざれば則ち礼楽興こらず、礼楽興こらざれば則ち刑罰中らず、刑罰中らざれば則ち民手足を措く所なし。

先生はいわれた、「がさつだね、由は。君子は自分のわからないことでは黙っているものだ。名が正しくなければ言葉も順当でなく、ことばが順当でなければ仕事もできあがらず、仕事ができあがらなければ、儀礼や音楽も盛んにならず、儀礼や音楽が盛んでなければ刑罰もぴったりゆかず、刑罰がぴったりゆかなければ人びとは不安で手足のおきどころもなくなる。

故に君子はこれに名づくれば必らず言うべきなり。これを言えば必らず行なうべきなり。君子、其の言に於いて、苟くもする所なきのみ。

だから君子は名をつけたらきっと言葉で言えるし、言葉で言ったらきっと実行できるようにする。君子は自分のことばについては決していいかげんにしないものだよ。」

論語 巻第七 子路第十三 金谷治 訳注

ここで孔子が語っているのは儒教的観念でも何でも無く、人間存在の真理に基づいたわかりやすい論理だ。

「言葉が現実の事象と対応していないから語っていることが現実と乖離しており」、「お互いわかったつもりになっているだけで、実態は名称の次元から現実と懸け離れたことをやっているので政治も仕事も日々の生活もまともな成果をもたらさない」。また「名も言葉もちゃんとしておらず、その場のノリで好き勝手なことをわめいているに過ぎないのでまともな文化や民俗も育たない」。「そのような環境では幾ら刑罰を煩瑣に立て厳しく取り締まっても、受け入れて正しくしていく土台がないので上から下まで詐欺が蔓延るばかりで犯罪は減少せず、万民が安心して暮らせる社会など訪れない」。

カタカナ英語はまさに孔子が正そうとしているその場のノリで好き勝手に意味を付与され、それぞれが好き勝手に都合のいい事を思い浮かべるのに使われている言葉に過ぎない。今の日本がこれほど狂った方向に発展し、その必然的結果として没落していくのはカタカナ外国語の氾濫と無縁ではない。


◇安易にカタカナ英語に頼ることによって失っている物

・よく日本人は”ガイジン”が描く日本文化を見て笑っているがカタカナ英語を通して日本人が理解していると思い込んでいる”事象”はまさにその嘲笑うべきトンデモ日本文化と同じもの。

・カタカナ英語は知的に劣化した万葉仮名への退行に等しい

単に音が近いというだけで難しい漢字を連ねた万葉仮名は、当然問題があったので和語の意味と漢字の意味を対応させて訓読みすることですばらしい日本語が出来上がった。(残念ながらその後の漢字文明礼賛は今のカタカナ外国語病と通じる所があり、本来のわかりやすく親しみ易いやまとことばを貶め壊していった。)

・カタカナ英語は原語と対応する実態が目の前にない為に、曖昧で受け手がどうとでも想像できることを悪用して商売,政治あらゆる面で詐欺的に使用されている。

“マニフェスト”を騙る政治家を当選させて何か良いことが起きただろうか?怪しげなカタカナ語を連ねてさも進歩的考えのように見せかける学者の言うことは正しかっただろうか?”ファジー”があなたの人生に何か良い影響を与えただろうか?”スピリチュアル”な事を信じている人の人生が豊かで充実しているだろうか?

すべて曖昧で都合のいい印象を各人が身勝手に抱けることを利用して人々を騙しているのが実態である。得をしているのは日本語という社会の共通基盤を破壊し、人々を騙している知的詐欺師達だけだ。

・カタカナ英語が本来の事実に通じる橋を焼き払っている

原語をそのまま用いていれば、その意味の把握が現にそれが使われている世界での意味と乖離することはない。ところがカタカナ英語だと対応する実態が目の前にないので、身勝手な思い込みばかりが先行し、挙げ句暴走してまったくずれたことになる、カタカナ英語で英語力が上がることなどなく、むしろ誤った理解を直してただしい意味や使い方を把握せねばならないのでその手間は何倍にもなってしまう。

橋を焼き払っているだけならいいが、カタカナ英語は偽物の橋を架けて、偽の意味、偽の世界に誘導している。

・カタカナ英語を止め原語を直接表記することで英語圏への橋が架かり、道が開ける。

橋がかかり道が開けば、後は実用に基づいてそれぞれが身につければよい。

◇カタカナ表記から原語直接表記にすることによって個人が得る利点

・Spellingの修正から始まって正確な英語への接近

原語表記を始めると、最初はカタカナ英語に依存していた為につづり(spelling)が間違っているのに気づきはじめる。これはごく基本的なことで、無茶苦茶な意味づけや解釈がされていた言葉と意味の対応も次々改められていく。

カタカナ英語を使う限り、わかったつもりで実際は誤った方向へ向かうことを止められない。原語を用いると意味も表記も現実にそれと対応する正しい方向へ向かうようになり、日本語・英語両方を正しく用いることができるようになっていく。

・本来の日本語力も取り戻せる

カタカナ英語を原語表記に置き換えてみると、日本語の文章としておかしく成り立っていないことが多いことにすぐ気づく。これらは本来日本語で表現すべきことだったということ。カタカナ英語を乱用した表現から日本語をちゃんと用いた表現へは単純な単語置き換えでは通用しない。文脈に応じて多数の語を組み合わせる必要がある。本来それをしていなかったことこそが問題。

カタカナ英語を用いて安易に表現し理解したつもりになっているが、それはどうとでも取れる曖昧さの上に乗っかっているに過ぎない。つまりあなたの日本語能力は劣化し続けている。

・日本語を中心に書き綴りながら継続して自然に英語力も強化していける

いきなり英語を文法・単語含めて正しく書くというのはあまりにも非日常的で障壁が高い。自分の思うことをすらすらと文章にしていく作業を母語以外で行うのはそもそも無理のあることで相当な習熟が必要になってしまう。

ところがカタカナ英語を原語に置き換えるだけなら誰でもかんたんに出来る。千里の道も一歩からというが、まさにこれが最初の一歩であり、常に歩き続けられる道になる。

原語直接表記は「常時軽い運動を絶やさない」ことと「junk-food(ジャンクフード)など身体に悪いものを食べない」ことを同時に行うに等しい。

◇カタカナ表記から原語表記にすることによって社会が得る利点

・カタカナ英語の利用はどちらの文化でも通用しない本来の意味から懸け離れた流行語に依存する言語的退廃へと陥る罠

・本来の言語は世代を越え、時代を越え共通の理解の基盤となる文化資源と直結している。エセ言語を用いるとそれらと遮断される。

古代から周辺異民族に何度も征服され、血縁的には古代とまるで変わってしまっている漢民族がその民族の同一性を保っているのは、すべて春秋戦国を中心とする古典を学び続けているからに他ならない。欧州を近代化し、世界を主導する存在になったのも古代Greece・Romeという共通基盤があったからこそだ。

・カタカナ英語は流行語としてしか通用しない

今喋っているカタカナ英語の類は大半が十年も経つとまるで通用しないゴミの山となる。必死にゴミを文章に切り貼りしてわかったつもり、わからせたつもりになっているが、数年でそれはまともに意味を為さないゴミの山となってしまう。

世代を越えて通じていく言語に、その時の流行り廃りで塗料をぶちまけていく様な行為を繰り返すと、社会全体の意思疎通すら難しくなる。自分は最新のカタカナ語に通じた流行に精通した人間だったのに、数年すると何を言っているかまるでわからない、といった事が繰り返されている。十年も経つと若い世代の言うことがさっぱりわからない。ここで言う”わからない”は考えがわからないのではなく、言葉がわからないという次元のものになる。

・カタカナ英語は事実を正確に反映しない単語を際限なく捏造し、人々を日本語・英語両方から遠ざけて、利益獲得の機会を喪失させ、社会的負荷を増やしている。

その場の感覚的ノリしか理解できない人々を対象に身勝手に外国語を変造して受容させ、その扱いをコロコロ変えていく社会に育てば、同じ社会でも異なる世代の間でまともな交渉を行ったり、受容した大元の言葉を使っている社会の人たちとまともに交流することが困難になっていく。

カタカナ英語が英語の理解を容易にしているなどと、とんでもない事を言っている人がいるが、先に述べたようにむしろ誤った理解ばかりが身に付くのでむしろ逆にまともな理解や表現から遠ざかる。

・幕末~明治時代には西洋由来の事を漢文学に精通した学者が日本語化しそれらは東洋で通用するまでにまでなったが、最早世界規模で通用することのない和製漢語(漢字、漢字の組み合わせ語)を作るぐらいなら、最初から英語(原語)を用いるべきである。

・カタカナ英語と原語直接表記が混在すると逆に読みづらい。二言語構造が読み込まれるため。

日本語+英語と日本語+カタカナ英語+英語だと前者の方が遙かに頭を使わない。少し慣れたら必要のないカタカナ外国語そのものを排除した方が誰もが楽になる。


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12 Comments »

  1. たしかに、カタカナ英語ってよく考えるとおかしいですよね。
    ほかの国を見てみると、他国語と混ぜて使ってる国って日本ぐらいと思う。

    Comment by aaa — 2010年5月23日 @ 21:55

  2. 久々にきてみればまた読みにくい文章での妄言の繰り返しかw
    ぜんぶ英語で書いてろよ。

    Comment by あああ — 2010年5月24日 @ 10:12

  3. >あああ
    この社会では、自分に実感できる形で事象が現れた時、その中の多くがカタカナ英語で示される。結果として、君の脳ではカタカナ外国語が事象と一番に連結されてしまっている。だから、カタカナ英語の代わりに原語で直接表記された文章は読み辛いんだな。これは戦前の写真を見たときに旧字で書いてあるものが、現代人にとってはよくわからないのと同じで、旧字が視覚・触覚・嗅覚もろもろ含めた実体験とともに示されていた当時の人にとっては不思議でもわかりづらい事でもなんでもない当たり前のことだった。

    自分はこれをやりだしてから1,2年ほどだけど、もうかなり前からカタカナ英語で書いてある方がわかりづらくなってるよ。そして、以前カタカナ英語を使っていた頃の様な、所詮たまにしか使わない言葉だから忘れてもいいという身体的な認識がないから、無理することなく着実に英語力が上がっている。

    できる人ができない人にわからない形で書くのは意味がないと思っているし、個々人が自らの程度と必要性に応じて、かんたんに橋を架けて行き来できるようになることが目標なので、当然これからも続けさせてもらう。

    Comment by sajin — 2010年5月24日 @ 11:19

  4. はじめまして。
    面白いお考えなので、ちょっとコメントさせていただきます。

    人類500万年の歴史で、文字を使い出したのは、多分せいぜい数千年前のことでしょう。
    それまで言葉とは「音」でした。

    小学生に英語を教えたことがありますが、そんな子供でもf、v、b、thなどの発音がなかなか出来ないです。
    日本語を使う環境の中で、そういう音を混ぜては使えない。
    言葉は音なんだということを実感します。

    例えば日本語文の中に”tool”と書いても、読む人は”ツール”と読むでしょう。
    日本語の中で”tool”の部分だけ英語ネイティブみたいには読めない。
    そして”ツール”と読んだ時点ですでに日本語だと思います。

    漢字も、日本人の発音は中国人の発音とは違います。
    日本語読みをするから、漢語も日本語になるわけです。
    例えば”手紙”という言葉は(漢語ではないですが)中国では別の読み方をし、意味はトイレットペーパーです。
    文字は漢字で書いてあっても、日本語なんです。

    ただ漢字は表意文字の要素が強いですが、アルファベットは表音文字です。
    かな文字は日本語の音を表すのに適した表音文字です。
    カタカナ外来語をアルファベット表記すると言うことは、アルファベットを表意文字として使うということですね。
    それも悪くはありませんが、どうせ日本語読みをするので読みにくいですね。

    むしろ私が嫌なのは、ちゃんとした日本語がすでにあるのに、わざわざ英語を使おうとすることです。
    最近ではNHKのアナウンサーまで”青”のことを”ブルー”などという。
    ”一時的”という言葉があるのに、なんで”テンポラリー”などという必要があるのかワカリマセン。
    こういうことをすると言葉の意味というものがどんどん薄っぺらいものになっていく気がします。

    われわれが英語を勉強しているのは、ただ意思疎通のために便利だからに過ぎないはずです。
    ところが英語は、内容の薄い話をごまかして、相手を煙に巻くために便利に使われてますね。
    学歴やテストの成績と結びついて、英語を知っていたり、しゃべったりするとカシコそうに見えたり、カッコよく思えたりするんでしょうけど、そういう卑屈な植民地的精神構造のほうを自覚して、恥ずかしく思って欲しいものだと思います。

    Comment by naturalfarm — 2011年2月15日 @ 22:44

  5. >むしろ私が嫌なのは、ちゃんとした日本語がすでにあるのに、わざわざ英語を使おうとすることです。

    原語表記をするようになりそれが外国語だと認識するようになると、不自然であれば使わなくなります。変にカタカナ化して外来語にするから、新奇で価値があるように錯覚してどんどんおかしな意味や使い方が膨らんでいってしまうんですよ。だからむしろ違和感のあるものとして扱うことが重要なんです。

    原語表記を何らかの形で強制する、特に公教育とmass mediaに強制する圧力をかけないと直すことはできません。

    隣の芝生は青く見える、遠く離れた異国の事は実に素晴しく浪漫に満ちて感じる、そういった自分の中で都合良くいいimageだけを描けるものを人間は好むんです。それを利用しているのがカタカナ外国語をばら撒いている文化人や商売人、政治家達です。小難しい語を並べても正確さは保っていた官僚すら最近はそれをやっています。末期といっていいでしょう。

    カタカナ外国語表記をやめ外国語と日本語を弁別して見るようになって、そもそも日本語は漢字によってあまりにも大きな改編を受けており、本当の意味で日本人がしっくりくるのは本居宣長が指摘するような漢字輸入以前の和語であると気づくようになりました。新奇なものに飛びつくのをやめれば、相手の言語と自分自身の言語の両方を深く正しく理解し、身につけることができるんです。

    Comment by sajin — 2011年2月15日 @ 23:35

  6. しかし絶望的に正確な発音とはかけ離れている外国人の名前のカタカナ表記をしているところを見ると、
    どうもご自分の中におかしな二重規範がありはしませんか。

    Comment by huh — 2011年7月13日 @ 19:39

  7. 1.Google検索ではかなりの通用が為されているようだが、単純な文字検索の場合、”絶望的に正確な発音とはかけ離れている外国人の名前のカタカナ表記”を原語表記すると検索に引っかからないので主としてtitleなどを”絶望的に正確な発音とはかけ離れている外国人の名前のカタカナ表記”であるが戦後日本社会で通用しているものに合わせ、人の出入りがあるように門扉の所のみ合わせておいた。
    2.”絶望的に正確な発音とはかけ離れている外国人の名前のカタカナ表記”しか知らずに文章を書いたり、打っている場合(特に英語以外の人名で顕著)、一々原語を調べてそれに移す作業を入れると文を書く勢いや姿勢そのものが崩れるので一時的にそのままで書いておいた。

    そもそもこの記事とそれにおいて為されている提案は中途半端な位置にある人が、集団錯誤による目前的通用から離れてより本質的、広域的に有用なものへと接近するためにある。自身においても後者の方向を向いてそれへと接近していれば少々の事はどうでもよい。
    個別の例で”これはこちらの方がよい”というならその場で直接その例を指摘して書いて貰いたい。

    Comment by sajin — 2011年7月13日 @ 20:33

  8. なるほど。ご自身の無謬性を固く信じておられることだけは伝わってきました。
    いずれ、カタカナ語の否定自体が小児的な癇癪に近い物だとお気づきになったときに、つまらない意地でもって執着を続けてしまわないようお祈りしております。

    Comment by huh — 2011年7月14日 @ 04:17

  9. 難癖を つけて語るは 己がこと
    心の内は 怖れ有るのみ

    Comment by sajin — 2011年7月14日 @ 16:16

  10. カタカナ語の優位点としては、どの言語由来の外来語でも音だけで表記できる点にあると思う。
    English語だけならともかく、フランス語やアラビア語の原語の表記法を学習するのは事実上不能だ。
     (アラビア語はtool上も原語表記は不能だ。)

    戦後数十年経ち、日本で使われる外来語がほぼEnglish由来になった以上は原語表記でも良いとは思う。

    でもやっぱ、「名詞は概ね漢字かカタカナで書かれるもの」として使われている以上、一般名詞をro-majiにするのは難しいかな。

    Comment by Yamada — 2013年9月28日 @ 17:53

  11. 私には読みづらいし慣れる気がしません。
    1ページに5、6語もあるともうげんなりします。

    英文にTsunamiとかNinjaとか日本語が含まれていたら、漢字に直すべきなんでしょうか?
    漢字に直したら英語と日本語の本質に近づくことになるんでしょうか?
    英語圏で理解の浅い日本語が氾濫する時代が来たら英語に漢字混じりの文を使うべきだと思いますか?
    私はそうなってほしくありません。読みづらいだけじゃなく気持ち悪いのです。

    私の英語は発音練習と語彙を高校時代より少し増やした程度ですが、カタカナ英語のない社会だったなら英語学習がもっとスムーズに進んだとは思えません。
    カタカナ英語ずれした同級生に発音を笑われることがない、くらいの変化はあったかもしれませんが、どうでもいいことです。
    むしろ全く興味のない時期に、強制的に生活の中に食い込まれることは、かえって意欲を減退させる恐れが大きいです。

    Comment by 安 — 2015年6月9日 @ 15:52

  12. 違和感・慣れの問題で拒否感を訴える人がいますが、それは逆もしかりで最初から違うもので表現してあればそちらに慣れるだけのことです。人間は脳に負荷をかけたくないから、今自分が慣れているもの、即ちすでに神経構築が済んだ世界があり続けて欲しいと無意識的に志向する生き物です。自分の周りに溢れる表現がカタカナ英語で行われているからそれに慣れただけのことで、逆ならそちらになれます。いい例が戦前までは看板から新聞まで右横書きと繁体字表記ですべての人間がそれに慣れていたのに、戦後の言語改造によりそれらは打ち捨てられ今の我々は左横書きと常用漢字に慣れてしまっていることです。戦後日本人の多くはそれをスラスラ読んで理解することはできないでしょう。

    今自分が慣れているものがいいからとそれを際限なく認めていけば、出鱈目なカタカナ語が際限なく増えて、「慣れた」人にとってすら理解し難い言語社会が訪れるだけです。例えば、団塊から上の世代はIT化以前のカタカナ外国語群に慣れていても、IT化以後のカタカナ外国語がちんぷんかんぷんだという人は山ほどいます。常に出鱈目で曖昧なカタカナ英語で既存の言葉が置き換えられていけば、あなたも年を取ればそうなります。

    英語はそもそも歴史的に漢字を取り入れたりしていないから、それを使う必要はありません。彼らは外国語由来の単語をそれが表している事象を正確に引き継いだまま、過ちも揺らぎもない英語として規定し取り入れただけです。なぜ取り入れたのかと言えば、それは彼らの言語社会に存在しない事象であったからです。日本人が使っているカタカナ外国語の多くは、記事内で説明していますが、それが曖昧でよくわからないのを良いことに、自分と他者を誤魔化し、その場で受けることだけを目的に濫造されています。つまり外国語における本来の意味を正確に引き継ぐことすらない出鱈目なものが多いのです。原語をそのまま使えというのは、歪曲・捏造される語を生成・使用するなという意味が強くあります。そういった語に関わることは、外国語学習だけでなく、国外の事象を正確に理解する妨げとなっても手助けと成ることはありません。

    またカタカナ英語はそもそも日本語にそれに該当する言葉があり、使う必要がないものが大半です。ちゃんと日本語で表現すればカタカナ英語自体が無闇に生活に食い込むことはないのです。今は小学生から英語教育が始まっていますから、少量のカタカナ英語化されているものを原語表記するのはむしろ自然で有用でしょう。

    Comment by sajin — 2015年6月9日 @ 20:03

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