SAND STORM

朝ぼらけ

2010年5月22日

カタカナ英語をやめよう – カタカナ英語も勉強もやめよう

Filed under: 未分類 — Tags: , , , — sajin @ 01:43

・基本的には山がある。
どのような方向からどのようなやり方で山に登っても良い。

単純明快に言葉と事実が100%連動している現地に行ってもいい、
口語会話を体験してから文語にはいってもいい、
大好きな映画を台詞から密に覚えていってもいい、
洋楽を聞いて歌い、その歌詞の意味を調べてもいい。
段々と確実に登っていけばいいだけのことである。
もし、あなたが”登っている”なら、そこには間違いなく使えるようになっていく実感があるはずだ。

だが、恐らくこの国の大半の人間は登っていく感覚を経験したことはないだろう。
学校教育がやっているのは山に登らせることをせずに、その周りを延々何十周、何百周、何千周と回らせているようなものだからだ。
あなたが長く辛い時間を過ごした学校での勉強があなたに何一つ実用に値する力を残さない、
それは何の不思議でもない。あなたは一切山に登っていないのだ。ただその周りを走っていただけである。
何かに命令され、仕組みが要求するままに山の周りを回り、ただその速度をtestされただけなのだから。

戦後という社会が要求してきたのは、登ることを一切せずにただ走る人間である。
つまり既存の組織にとっての使い走りであり、それ以上でもそれ以下でもない。

この教育がやらせようとしていることは、延々山の周りを可能な限り走り続け、
そうしてできあがった脚力によって一挙に山の頂上に飛び乗るという滑稽を通り越した狂気とでもいうべき光景だ。

日本語はすでに亡びている @ 池田信夫 blog

◇学びなき”勉強”

日本人は学習することをよく勉強というが、”勉強”という文字には学ぶという字は一つも入っていない。そこにあるのは”勉め””強いる”、ただの強制である。

たしかに何かを習得しようとするとき、ある程度神経を張り詰めて取り組まなければならない事が多い。しかし後進国型後追い教育の虜になった日本人にはそれしか思い浮かばない。

・学びの本質の中で必要があれば勉強もする、しかし学び全体が見えていれば、その態度はもっと柔軟なものになる。

・学びはそれを世界に用いて成果を得ることを前提としている。勉強は多くの場合そのような事とは無縁に行われる。

・現実に自らがそれを用いることが当たり前の職人は勉強するなどとは言わない。「盗む」だ。

・特に自然の本質から物事を学ぼうとする時、勉強は有害。

・勉強は既にある体系を吟味せずに刷り込もうとするときの典型的な態度。

・終いには”勉強”してさえいれば学んでいると勘違いするまでに至った。

・学びというのは肉体に起こる変化だが、自らが何をどのように学んでいるかまったく意識していない。

・学び自体がどういうことであるかを認識、自覚しないために、その効率化ももっと素晴らしいことを学ぼうとする発想も出てこない。

・むしろ必要としてもいないことを勉め強いた反動として、学んで取り入れれば生態に利益をもたらすことすら忌避するようになる。

・直接的な学びの利をもたらさない勉強から利益を得られるのは、それによって”勉め強いる能力”を示すことで都合のいい従僕を求める組織にappealし、社会的地位を獲得した者だけ。地位からあぶれる大多数にとって勉強は貴重な生と時間を無駄にするだけに終わる。

・勉強は死んだ体系への奴隷的服従である。

・例えば遊んでいても生命は学ぶ。遊びの内に、正解を取り巻く分厚い周縁の事を多くの失敗とともに同時に学ぶ。

現実世界は正解が固定することはなく、常に変化している。その様な中で動的な状況に合わせて正解を導き出す。

勉強は現実世界が固定している、即ち死んでいることを前提に固定した答えを出すもので、実際の世界の状態に矛盾している。


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2 Comments »

  1. 学びは肉体に起こる変化というところにとても共感できます。
    私は学ぶことは現実世界との対話であり、その学びが正しいものならば必ず答えが帰ってきて、それによって自分に昨日とは違う何かを与えてくれると思っています。

    少しずつですが、カタカナ英語をやめて英語の文字を聞いたときに、直接英単語をimageするようにします。

    きっかけを与えてくださって、ありがとうございます。

    Comment by faustino — 2011年1月3日 @ 02:30

  2. “カタカナ英語をやめよう”は個人でも、集団でも、国家でも実行すれば成果が得られるように提言してある。
    みんながその道を通っているというだけで、本来自分たちが使っていた道でもなんでもない、遠回りのねじくりまがった道を使っているのを、「本来自分たちが使っていた真っ直ぐな道はこれですよ、これを元にちょっと整備すれば自分たちの元の世界にも外の世界にも正確に素早く労力をかけず接することができますよ」というだけの話だから。
    バカでもわかるぐらい合理的な話なんだ。学者も政治家も官僚も自分たちが何を喋っているかわからなくなっている今の文化、もう先が見えているのに付き合うぐらいならrationalな方を選べばいい。

    『大道は甚だ夷(たいら)かなるも、而るに民は徑を好む』老子

    Comment by sajin — 2011年1月4日 @ 19:40

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