SAND STORM

朝ぼらけ

2012年11月24日

カタカナ英語をやめよう – かんたんにできる社会全体の移行

Filed under: 未分類 — Tags: , , , — sajin @ 08:42

◇政府が介入する必要性と正当性

無茶苦茶なカタカナ外国語を捏造し氾濫させるのは皆が使う公共施設を荒らし、道路や標識を勝手に塗り替えたり壊しているのに等しい。経済で言う所の負の外部性、公害に当たる行為だ。政府は無闇矢鱈と表現に介入すべきではないが、こういう基礎的なinfrastructureの維持構築だけは率先してやらねばならない。そして言語はまさにあらゆる表現のinfrastructureに他ならない。

◇個人や集団としての移行

個人として移行するのは、当人が決心しさえすればいつでも簡単に行える。後はひたすら自分がどれほど曖昧で歪んでいて間違ったカタカナ外国語に依存しておかしな表現をしていたかに気づき、それを直していく作業に過ぎない。その過程でまともな日本語表現と正確な外国語の理解が身に付いていく。

集団としての移行は、合意や強制を以て行えばその集団内で同調させることは難しくない。自分の経験から言えば、そもそも原語化した外国語など使う必要はほとんどなく、多くはちゃんとした日本語表現に置き換えられていく。

ただし、国家としての日本が狂ったカタカナ外国語を規制しない限り、安易にその場のノリでカタカナ外国語を使う外部との軋轢に苦しむことになるだろう。

◇国家としての移行

・日本では義務教育で英語教育が半世紀以上行われている。社会全体が移行するのに問題はない。

これは使い物にならない試験英語勉強を強制されてきた日本人にいきなり英語を喋れというような無茶な事ではなく、単に原語表記しろということに過ぎない。

英語を理解し、読み書きしたり話す必要がある人はそれをより正確かつ円滑に日本語との間で自然に行えるようになり、そもそもカタカナ外国語など用いる必要のない人はちゃんとした日本語で読み、書き、話すようになっていく。

・翻訳や置換などをsoftwareで簡単にできるようになった現代ではその負荷は大したことではない。

digital化が進みそれが当たり前となるこれから、大量の文書のカタカナ外国語を原語表記する程度の事は何ら難しいことではない。問題があるとすれば、それはその様なカタカナ外国語で誤魔化してきた文章の怪しさ・曖昧さ・おかしさが明白になるということだけだ。

・税金と時間をかけることで無理のない移行が可能

政府が強権的に「今日からカタカナ外国語は禁止する。原語表記に統一せよ」と命じて実行した場合どうなるだろうか?社会的混乱と負荷はかなり大きいだろう。表現の自由にも反する。

では、独裁体制でも成立しない限りもう痛みなくカタカナ外国語まみれの状態から脱却できないのかといえばそんなことはない。鍵は”禁止する”のではなく”税金をかける”ことである。

カタカナ外国語を使った出版物(digital含む)に税金をかければよい。その際、弱小出版物は放置し影響力の大きいmedia(公共media、新聞、TV、internetであれば月刊閲覧数10,000以上など)から税金を取り立て ていけばいい。影響力の大きいmediaが移行すれば当然全体の移行は進む。またカタカナ外国語を原語に置き換えるutilityぐらいは直ぐに幾らでもでてくるだろう。大規模mediaがそのようなutilityを買って導入するのは難しい事でも何でもない。

表現の自由を侵害せずに、言語的退廃に陥った社会を矯正し、まともな言語を操ることで両方の文化で活躍できる人材を増やし、かつ政府収入にもなる。


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2012年11月20日

カタカナ英語をやめよう – 外国人や原語環境にいる人が抱く感想

Filed under: 未分類 — Tags: — sajin @ 18:01

閉じられたドアの向こう側で カタカナ英語の嫌いな次男

あのさ、外国人もカタカナ英語が嫌いなんです。インタネットとかマイクとか言ったらいいですけど、 「セルフ」とか「ベッドルーム」とか言うときに、俺はヘドしたいって感じます。そんなにきらいなんです。もう日本語の言葉があったら、なんでカタカナ英語を使っているんですか。白人になりたいんですか。日本語を勉強するのを止めた友達が多いです。「日本語で話すのを勉強するのは、アホな英語で話すのを勉強することだから止めた」と言われました。多分激しすぎたでしょう。でも、もし不必要にカタカナ英語を使い続けるなら、日本語と日本の文化をいつか全部失ってしまうと思います。西洋の国に来てみてください。かっこいい場所じゃありません。全部の留学生は「最初は、ここが大好きだけど、もう嫌いになって出発したい」と言いました。日本のため、悲しいですよ。

David |  2011.10.19(水) 10:09

USAに居住して子育てをしている母親が、子供が親たちの使う訳のわからぬカタカナ英語にまみれた土俗語でなく、ちゃんとした日本語を用いるよう注意してくる、という記事に寄せられたcomment。

日本語を学ぼうとする外国人がカタカナ英語のおかしさを訴えるのは自分も4chanなど日本の文化が好きな人が多い場所で何度か見たことがある。”日本語で話すのを勉強するのは、アホな英語で話すのを勉強することだから”止めた人は多いだろう。

自分達の言葉があるのに、次々と外国語をその場のノリだけで取り入れては好き勝手に色付けし、日本語を忘れ、取り入れた元の原語とも懸け離れた理解困難なJapanglishを喋る知的に問題がある集団。外から見ればそう見える。

“言葉は時代とともに変わるもの”などという水準の話ではない。どう見ても日本人は日本語と日本の文化をすでに全面的に失いつつある。こんな自らの文化も守らず、訳の分からぬ三流の派生言語を喋る集団を中国人の移民とすり替えた所で何の問題があるだろうか?

その程度の価値しかないと見なされる人々はそれに相応しい扱いを受けるということを歴史は無数の例で教えている。


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2012年11月18日

カタカナ英語をやめよう – 応答集/よくある質問(FAQ)

Filed under: 未分類 — Tags: — sajin @ 23:35

◇なぜカタカナ外国語全体でなくカタカナ英語に対象を絞っているか

そもそも英語(English alphabet)以外の文字は認知そのものが困難であるということ。専門に習ったり学んだりしない限り、英語以外、例えばHebrew(ヘブライ)文字、Cyrillic(キリル)文字を原語で書いてもほとんどの人間が認知すらできない。

逆に英語、英文字(English alphabet)は、既に日本への流入は長期かつ膨大で、しかも日本国民は義務教育として半世紀以上英語教育を受けている。そして英語は文化から経済、研究に至るまで全世界の共通言語となっている。

英語以外は認知もできず、基礎教育すらまったく行われておらず、実用性においても雲泥の差がある。当然カタカナ外国語の大半も英語が起源。だから無闇に対象を拡大することなくカタカナ英語に絞っている。

◇カタカナを用いた外国語表記の許される形態

カタカナを用いた外国語表記は、English/英語であればSamuel Morison(サミュエル=モリソン)、Greek/希臘語であればΑχιλλεύς(アキレス)など、まず原語を表記してその後に括弧で仮の呼び名として便宜上カタカナの読みを付けるという形態のみ許される。そして、その様な原語が前にでるなら、カタカナ表記は池谷裕二が提唱しているような、限りなく原音に近い発音表記でいい。

絶対的な原則として、国外の事は国外の事、異物として扱わせ、その語が表す意味は海の向こうの別社会にあるのであり、閉鎖的な島国の身勝手な思い込みではないことを意識させる必要がある。異物であることを自覚させれば、勝手な意味づけを膨らませたり、安易に本来日本語で表記すべき文を異物にたよって表記したりはしなくなる。

◇歴史的通用性と空間的通用性

カタカナ英語をやめよう – 近代日本と断絶の日本語で詳述しているが、”カタカナ英語をやめよう”運動の軸になる原理は従来無意識に日本語と認知されてきたものの母体である和語とそれが取り入れ(日本人が勝手に変造し)た外国語部分を切り離し、その両者を徹底的に歴史通用性と空間通用性に適合させる点にある。

一.外国語部分は身勝手な意味づけや変造をせずに徹底的に歴史的・国際的合一をはかり通用性を重視する
二.そのような外国語を受け入れ駆使する母体である和語をきっちりと守り発展させる

前者の通用性は時間軸における通用性つまり歴史通用性と、面における通用性、より広く多様な地域でより多くの人間と通用する空間通用性の両方が求められる。単に今、最大の人口を誇る共産支那(Communist China)が著しく変造された簡体字を用いているからといって、安易にそれに合わせたりはしない。適合させるのは敗戦後に変造されるまで用いていた旧字とほぼ同じの繁体字になる。

和語そのものの用い方や意味づけも、可能な限り古代にまで遡って同調させる。日本人がその時代の内輪だけのノリで勝手に変造した意味や用い方を公式なものとして採用していくなど害でしかない。

そもそも漢字自体が外国語であり、自分達で技術・思想・概念を生み出せなかった日本人がその時代に取り入れたに過ぎないことを意識しなければならない。日本人が守る必要があるのは和語だけであって、自分たちが世界で通用する規格や文明を生み出す主役となれない以上、和語以外の部分は徹底して歴史と国際環境における通用性を重視しなければならない。二千年の昔も今も極東の島国の住民に過ぎない日本人がやることは同じである。


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