SAND STORM

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2010年5月23日

カタカナ英語をやめよう

Filed under: 未分類 — Tags: , , , — sajin @ 04:00

実体験に基づいてカタカナ英語という捏造言語での表記をやめて原語表記にすることによって何が得られるか、無意識にカタカナ英語を乱用することで個人が、社会が、何を失っているのかということを書いていきたい。

子路曰わく、衛の君、子を待ちて政を為さば、子将に奚をか先にせん。

子曰わく、必らずや名を正さんか。

子路曰く、是れ有るかな、子の迂なるや。

子曰わく、野なるかな、由や。君子は其の知らざる所に於いては、蓋闕如たり。名正しからざれば即ち言順わず、言順わざれば則ち事成らず、事成らざれば則ち礼楽興こらず、礼楽興こらざれば則ち刑罰中らず、刑罰中らざれば則ち民手足を措く所なし。

故に君子はこれに名づくれば必らず言うべきなり。これを言えば必らず行なうべきなり。君子、其の言に於いて、苟くもする所なきのみ。

(子路がいった、「衛の殿さまが先生をお迎えして政治をなさることになれば、先生は何から先になさいますか。」

先生はいわれた、「せめては名を正すことだね。」

子路はいった、「これですからね、先生のまわり遠さは。[この急場にそんなものを]どうしてまた正すのです。」

先生はいわれた、「がさつだね、由は。君子は自分のわからないことでは黙っているものだ。名が正しくなければ言葉も順当でなく、ことばが順当でなければ仕事もできあがらず、仕事ができあがらなければ、儀礼や音楽も盛んにならず、儀礼や音楽が盛んでなければ刑罰もぴったりゆかず、刑罰がぴったりゆかなければ人びとは不安で手足のおきどころもなくなる。だから君子は名をつけたらきっと言葉で言えるし、言葉で言ったらきっと実行できるようにする。君子は自分のことばについては決していいかげんにしないものだよ。」)

論語 巻第七 子路第十三 金谷治 訳注

言葉が現実の事象と対応していない→語っていることが現実と乖離している→名称の次元から現実と乖離したことをやっているので仕事・事業はロクな成果を収めない→また名も言葉もちゃんとしていないので、まともな文化・民俗が成り立たない→いくら刑罰を煩瑣に立て厳しくしても、それを受け入れて正しくしていく土台がないので犯罪が減少しない→万民が安心して暮らせる社会は訪れない


◇安易にカタカナ英語に頼ることによって失っている物

・よく日本人は”ガイジン”が描く日本文化を見て笑っているがカタカナ英語を使って日本人が理解していると思い込んでいる”事象”はまさにその嘲笑うべきトンデモ日本文化と同じもの。

・カタカナ英語は知的に劣化した万葉仮名への退行に等しい

・カタカナ英語は原語と対応する実態が目の前にない為に、曖昧で受け手がどうとでも想像できることを悪用して商売,政治あらゆる面で詐欺的に使用されている。

・カタカナ英語が本来の事実に通じる橋を焼き払っている

橋を焼き払っているだけならいいが、カタカナ英語は偽物の橋を架けて、偽の意味、偽の世界に誘導している。

・カタカナ英語を止め原語を直接表記することで英語圏への橋が架かり、道が開ける。

橋がかかり道が開けば、後は実用に基づいてそれぞれが身につければよい。

◇カタカナ表記から原語直接表記にすることによって個人が得る利点

・Spellingの修正から始まって正確な英語への接近

原語表記を始める→カタカナ英語に依存していた為にSpellingが間違っているのに気づく

・本来の日本語力も取り戻せる

カタカナ英語を原語表記に置き換えてみると、日本語の文章としておかしい、成り立っていないことが多いことに気づく。これらは本来日本語で表現すべきことだったということ。

カタカナ英語→日本語は単純な単語置き換えでは通用しない。文脈に応じて多数の語を組み合わせる必要がある。本来それをしていなかったことこそが問題。

カタカナ英語を用いて安易に表現し理解したつもりになっているが、それはどうとでも取れる曖昧さの上に乗っかっているに過ぎない。つまり日本語能力の劣化である。

・日本語を中心に書き綴りながら継続して自然に英語力も強化していける

・原語直接表記は「常時軽い運動を絶やさない」ことと「junk-food(ジャンクフード)など身体に悪いものを食べない」ことを同時に行うに等しい。

◇カタカナ表記から原語表記にすることによって社会が得る利点

・カタカナ英語の利用はどちらの文化でも通用しない本来の意味から懸け離れた流行語に依存する言語的退廃へと陥る罠

・本来の言語は文化資源と直結している。エセ言語を用いるとそれらと遮断される。

・カタカナ英語は流行語としてしか通用しない

今喋っているカタカナ英語の類は大半が十年も経つとまるで通用しないゴミの山となる。必死にゴミを文章に切り貼りしてわかったつもり、わからせたつもりになっているが、数年でそれはまともに意味を為さないゴミの山となる。

世代を越えて通じていく言語に、その時の流行り廃りでペンキをぶち掛けていく様な行為を繰り返すと、社会全体の意思疎通すら難しくなる。自分は最新のカタカナ語に通じた流行に精通した人間だったのに、数年すると何を言っているかまるでわからない、といった事が繰り返されている。十年も経つと若い世代の言うことがさっぱりわからない。ここで言う”わからない”は、考えがわからないのではなく、言葉がわからないという次元のものになる。

・カタカナ英語は事実を正確に反映しない単語を際限なく捏造し、人々を日本語・英語両方から遠ざけて、利益獲得の機会を喪失させ、社会的負荷を増やしている。

・幕末~明治時代には西洋由来の事を漢文学に精通した学者が日本語化しそれらは東洋で通用するまでにまでなったが、最早世界規模で通用することのない和製漢語(漢字、漢字の組み合わせ語)を作るぐらいなら、最初から英語(原語)を用いるべきである。

・カタカナ英語と原語直接表記が混在すると逆に読みづらい。二言語構造が読み込まれるため。

日本語+英語 vs 日本語+カタカナ英語+英語だと前者の方が遙かにマシ。


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2010年5月22日

カタカナ英語をやめよう – 近代日本と断絶の日本語

Filed under: 未分類 — Tags: , , , — sajin @ 01:46

やらなければならないのは日本語の外来語部分を国際標準に切り替え、世界への橋をかけること


◇水村美苗『日本語が亡びるとき-英語の世紀の中で』

日本の外国文学研究が滅びるとき @ 内田樹の研究室

この本は話題になったが、その騒動は見ていてなんとも焦点の合わないズレた話だと思っていた。

何もかも無理に日本語で処理しようとし過ぎた結果が今のカタカナまみれの読むに耐えない文章の数々であって、それは日本人が世界に対応できていない 徴であり、現今の問題はそこに集中している。

・本来は当用漢字を中心とする日本文化の断絶・抹殺を図るために捏造された”戦後語”を廃棄し、旧字の復活(それを裏支えする古典漢文、戦前文学そ の他の必須教養化)を視野に入れるべきだが、大きな障害が幾つもあるので簡単にはいかないだろう。

・日本語は和語を母体に2000年近い時間をかけて漢字を消化し、さらに明治維新で西洋近代化の事象に対応させたもの。

・カタカナ表記というのはTemporaryなものでしかない

・日本の教育は後進国でしか上手く回らない”成功Modelへ追いつけ追い越せ”を押し進めただけの、暗記装置、無意味化された歴史事項表出装置、 数学計算機、英語翻訳機、そんなComputerで代用させればいいだけの実態/実用と懸け離れたものを作り上げようとしているバカな代物。

・”明治維新~追いつき追い越せ~大発展~破滅”、”戦後の焼け野原~追いつき追い越せ~大発展~破滅”この2つは馬鹿な後進国型の教育がもたらした必然の帰結。

・教育などというものは小中学校Levelに止めて、後はすべて実用と連動させた自学に任せる他ない。追いつく頃には成功Modelはとっくに終 わっている。

◇カタカナ英語と当用漢字は取り替え可能。両者を国際標準に変えよう

・母体である和語と外来語である漢字、カタカナ英語は切り離せる

日本語は構造としてまず和語があり、そこに外来の事項を一挙に取り込むために漢字を取り入れ融合させた。それから、欧州諸国が近代文明の覇者として世界を席巻したためにそれらの国の概念・用語を必死で取り入れた。最終的に英国とその継承者である米国が世界の覇権を握り英語が国際標準となったこと、加えて日本は戦争に負けて米国に支配されたので、近代~現代に至るさまざまな事象をカタカナ英語で受け入れることになった。

このような日本語特有の構造から日本語における外来語部分はカタカナ⇔英語としたり、当用漢字⇔旧字とすることが容易にできる。

今為さなければならないのは、日本という狭い、沈没していく島の中の戦後という期間のみ通用した流行語を死守することではなく、和語の部分だけをきっちりと残し、外来語部分を国際標準に合わせて切り替えることだ。幸運なことに日本語でそれをやるのは簡単にできる。

漢字を旧字体(繁体字)に戻し、香港・台湾・華僑ら漢字文化圏と通用を計ると同時に、敗戦までの日本および古代世界にまで至る東Asiaの世界、歴史、哲学と接続する。

カタカナ英語は原語表記にし、誤った受容を棄て、直接原文に近づくことのできる橋をかける。現代の知における世界的標準言語となり、世界中の人間がそれを用いて高度な知を交換している英語という知的世界と接続する。

日本語をカタカナ英語の様な流行語で破壊し続け島国の中でだけ通用する方言に貶めていくのか、その伝統的母体をきっちりと守りつつ、激しく発展する国際社会と通用する連動したものにするのか。

カタカナ英語と当用漢字を国際標準に切り替えない限り、日本に生まれた個人も、日本自体も世界に対して生き残れない。

◇簡体字か繁体字か

共産中国の用いる簡体字に合わせることは現代の中国に容易に橋をかける。一方、逆にそれ以外の伝統文化、歴史、繁体字世界と断絶をもたらす。また簡体字のそれは著しく変造されたもので、漢字の良さそのものを破壊する。

総合的に考えて共産中国の奴隷にでもならない限り、用いるべきではない。


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カタカナ英語をやめよう – カタカナ英語も勉強もやめよう

Filed under: 未分類 — Tags: , , , — sajin @ 01:43

・基本的には山がある。
どのような方向からどのようなやり方で山に登っても良い。

単純明快に言葉と事実が100%連動している現地に行ってもいい、
口語会話を体験してから文語にはいってもいい、
大好きな映画を台詞から密に覚えていってもいい、
洋楽を聞いて歌い、その歌詞の意味を調べてもいい。
段々と確実に登っていけばいいだけのことである。
もし、あなたが”登っている”なら、そこには間違いなく使えるようになっていく実感があるはずだ。

だが、恐らくこの国の大半の人間は登っていく感覚を経験したことはないだろう。
学校教育がやっているのは山に登らせることをせずに、その周りを延々を何十周、何百周、何千周と回らせているようなものだからだ。
あなたが長く辛い時間を過ごした学校での勉強があなたに何一つ実用に値する力を残さない、
それは何の不思議でもない。あなたは一切山に登っていないのだ。ただその周りを走っていただけである。
何かに命令され、仕組みが要求するままに山の周りを回り、ただその速度をtestされただけなのだから。

戦後という社会が要求してきたのは、登ることを一切せずにただ走る人間である。
つまり既存の組織にとっての使い走りであり、それ以上でもそれ以下でもない。

この教育がやらせようとしていることは、延々山の周りを可能な限り走り続け、
そうしてできあがった脚力によって一挙に山の頂上に飛び乗るという滑稽を通り越した狂気とでもいうべき光景だ。

日本語はすでに亡びている @ 池田信夫 blog

◇学びなき”勉強”

日本人は学習することをよく勉強というが、”勉強”という文字には学ぶという字は一つも入っていない。そこにあるのは”勉め”"強いる”、ただの強制である。

たしかに何かを習得しようとするとき、ある程度神経を張り詰めて取り組まなければならない事が多い。しかし後進国型後追い教育の虜になった日本人にはそれしか思い浮かばない。

・学びの本質の中で必要があれば勉強もする、しかし学び全体が見えていれば、その態度はもっと柔軟なものになる。

・学びはそれを世界に用いて成果を得ることを前提としている。勉強は多くの場合そのような事とは無縁に行われる。

・現実に自らがそれを用いることが当たり前の職人は勉強するなどとは言わない。「盗む」だ。

・特に自然の本質から物事を学ぼうとする時、勉強は有害。

・勉強は既にある体系を吟味せずに刷り込もうとするときの典型的な態度。

・終いには”勉強”してさえいれば学んでいると勘違いするまでに至った。

・学びというのは肉体に起こる変化だが、自らが何をどのように学んでいるかまったく意識していない。

・学び自体がどういうことであるかを認識、自覚しないために、その効率化ももっと素晴らしいことを学ぼうとする発想が出てこない。

・勉強は死んだ体系への奴隷的服従である。

・例えば遊んでいても生命は学ぶ。遊びの内に、正解を取り巻く分厚い周縁の事を多くの失敗とともに同時に学ぶ。

現実世界は正解が固定することはなく、常に変化している。その様な中で動的な状況に合わせて正解を導き出す。

勉強は現実世界が固定している、即ち死んでいることを前提に固定した答えを出すもので、実際の世界の状態に矛盾している。


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